【小説】爆弾をもっと爆弾を更なる殺傷力のある爆弾を【6万5000文字】

   爆弾を、もっと爆弾を、さらなる殺傷力のある爆弾を


   完全なる暗闇Ⅰ

 午後八時。食べたお皿をシンクに置く。テレビのスイッチを切る。蛍光灯のひもを引っ張る。部屋がグレーの暗幕を張られて八畳の居間が大人しくなる。
 カーテンとカーテンには黒いテープが張られて間が空かないようにされている。窓の外は狭い路地だ。目の前の家には「立ち入り禁止」のテープが掛けられている。周辺はさほど明かりはない。しかし光は細菌や白アリや脱法ハーブのように侵入してくる。
 しかし仕事帰りの班目が過ごす場所は部屋ではない。小さな身体を折り曲げて押し入れの襖を開けて中に入る。毛玉だらけの茶色の座布団が敷いてあるのでそこに座る。築二十六年の賃貸アパートの戸は完全に閉まらない。かすかにできる隙間からの光を遮断するために座椅子の下に手を突っ込み、アイマスクを取り出す。それを付ける。
 低反発のポリエステルの中で目を開ける。光なき広がりの中にいる。目を閉じると瞼に光の残骸を 押し入れの中で目を開けている。目を瞑るより開けている方が暗いのだ。
 完全なる暗闇にいると頭の中で想像したものが目の前に映る。肉体を動かすのではなく、映像を動かすことで自分が動く。脳と動作が一致する幸福感を覚える。そのとき三十一歳の彼は少し若返った気持ちになる。
 しばらくそこで過ごすと、襖を開けてデジタル時計へと身体を這う。アイマスクを右目だけずらす。デジタル時計のライトを付ける。「22:05」。押し入れの中で二時間が経過する。あと一時間だけ、押し入れの中にいる。
 就寝三十分前には小さな電球の灯りで布団に入りながらドラゴンボールを読む。ページが破けてテープで留めてある。
 仕事がやってくる。引きずる重たい気持ちを振り払いながら。

 

 

 

 

   完全なる暗闇Ⅱ


 班(まだら)目(め)喜(き)吉(よし)が押し入れでの生活を始めたのは最近だ。勤めている鉄工所が大量注文からのピーク時期を迎え、週六の勤務が続いている。午前八半時から午後六時半。午後0時に眠り、六時半に起床する。ピークがいつ終わるのか、少なくとも班目の耳には届いていない。
 押し入れでの時間の流れはある程度は緩かった。班目はテレビが好きだが、観ているとあっという間に時間が流れるのだ。明日がやってくるスピードの速さに心が追いつかないのだ。押し入れには自分だけの落ち着く空間が広がっていて、何時間でもそこにいられた。
 押し入れの中で仕事のことを考える。ミスをしたらおしまいだ。指示が聞けない人間はクビを切られる。製造ノルマを達成できない人間は責められる。
 押し入れにいる時間が体感的に三十分だとすると、実際に経過するのは二時間だったりする。習慣が定着すると時の流れが速くなる。
 また新たに過ごし方を見つけなければならない。時間を遅くする、新しい習慣。遅く感じるのは最初だけ。味のしなくなったガムのように。愛の冷めた男女のように。アメリカの言いなりになる日本のように。買ったばかりの服の匂いのように。


   湯谷温泉のあの娘Ⅰ


 行きつけの健康ランド「楽園地獄」は満席だった。土曜日の午前九時、開店から一時間で駐車場をワゴンRと軽自動車でぱんぱんにしていた。
 予定変更が必要だった。温泉は必須だった。この週六日の勤務中、温泉のことを考え続けた。日曜日のこの日の温泉のために生きてきたのだ。
 班目は携帯電話のネット機能をこなせない。記憶から温泉地を探る。思いついた場所は辺境の地。そこまで車を走らせる。天気は曇天だ。車が山を越えるにつれて、フロントガラスから見える周辺が暗くなる。
 目的地は山脈地帯のS市の外れ。温泉街の「湯谷温泉」。夏場にとれる鮎が名産品。五月中旬はシーズンオフ。天気が優れないこともあるからか、駐車場は車が少ない。隅に駐車する。リュックサックを持ち、傘を握り、駐車場から出る。
 外れの旅館は予約なしで日帰り温泉ができるはずだ。温泉街に入っていく。土地勘はあった。仕事の関係で二年前に訪れていた。
 午前十時半。旅館にまぎれて長屋がある。バスケットボールのゴールのネットは千切れ、山積みになった木板は苔が浸食している。「なごみの館」と書かれたプレハブ小屋は、汚れたクッションやブルーシートが詰め込まれ、窓にはガムテープが貼られている。林道の奥に覗く百五十一号線はS市よりもさらなる山奥へと続く集団バイクや車体の低い車が活動的に飛ばしている。
 目的の旅館「朱雀」は竹やぶに囲まれて暗い。外壁は青コケにまみれて、一層黒ずんで見える。
 視界の端から視線を感じる。ゆっくり顔を向ける。熊が両手を挙げて、鬼の形相で直立している。少し竹藪の奥に置かれているせいで、木彫りの熊が後ろにいるように見える。少し膨らんだ腹は、「ウェルカム」と文字が刻んである。
 その隣には紐の付いたタイヤが三個置かれている。部活の合宿に使ったのかもしれない。そう思いながらタイヤの中を覗くと、水が溜まっている。
 入り口のガラスから中を覗く。ロビーは明かりが付いていない。外出用の旅館のサンダルが散っている。気持ちが萎縮しながら戸を引いた。鍵は掛けられていない。カラカラと扉が開く。班目を中へと誘う。
 薄暗いロビーに立つ。誰かが来ることを期待する。何も起こらない。
 両端の金色の障子が仕切りになっている。中央は座椅子が並ぶ。五十インチほどの立派なテレビが置かれているが、電源はついていない。奥の窓からは竹藪が並ぶ庭が白い光で輝いていた。隣のガラスケースには巨大蜂の巣が入っている。その横には鉄兜。
 班目は靴を脱いだ。右に見えるカウンターの前に立つ。
 明かりが付いている。事務所のようなごちゃごちゃした机が並んでいる。カウンターの上の小さな置き時計は午前十時四十分を指している。
 聞き覚えのあるテロップ音や演出やナレーションが小さく鳴っている。少しだけソファーの肘掛けだけが見える。そこに細い老人の手が置かれている。司会者の軽快な進行とは裏腹に、指が苛立っているように肘掛けを小突いている。手の甲には血管が浮き出て、肌は黒に近い褐色。人でないなにかに見える。班目はカウンターから遠ざかる。
 ガラス窓に入浴所の道筋を示した紙を発見する。
 「入浴、九時から十一半、十六時から二十一時也」。
 奥の戸を引く。外の明かりが照らす、ほのかに明るい廊下を歩く。その間、誰にも会わない。湯谷温泉内に駐車してから、誰ともすれ違わない。カウンターの褐色の手以外。声を掛けるべきだった。しかし足が止まらない。
 男湯の暖簾の中に入る。無人。勝手に電気を付ける。浴槽の蓋が閉まっているのをガラス戸から確認する。そのまま柱時計がかちりかちりと館内に鳴る老舗旅館を後にする。
 灰色の温泉街を心細くなりながら歩く。「朱雀」のあのカウンターには湯谷温泉の温泉専用パンフレットが置かれていた。日帰り入浴可、不可の旅館案内、入浴できる時間帯、各旅館の地図などが記されているパンフレット。今班目が欲しい情報が全て掲載されている。その有り難い存在に班目は一切気がつかない。


   湯谷温泉のあの娘Ⅱ


 初めてこの地を訪れたのは二年前。当時は地方の新聞社に勤務する。湯谷温泉には取材で二度訪れる。他各所を巡る「奥三河探検ツアー」に混じり、バスツアーの体験を記事にする。その後、都市Mの芸大生のアート作品を街が融合するとして再度ペンを握る。私生活で足を運んだのは初めてだ。
 百八十近い上司の背中。ロサンゼルスで未成年と性交したと得意げに話す地元の中年男性陣。出来上がった記事は散々なものばかり。道を彷徨う程、新聞記者時代の記憶が蘇る。
 赤い橋「浮き石つり橋」は霧が密集している。橋から覗く谷間の西も東も、白いベールに包まれている。飛鷹が巨大な岩肌の上空を滑る。遙か足下に流れる漂流がうねる。
 旅館が並ぶメインの街道に出る。小さく控えめな旅館の看板が道の奥までこちらに向く。手前の旅館にする。予約制なら諦める。近くの健康ランド「ゆーゆーありいな」で入浴を済ます。そこが一杯ならアパートに帰る。そう決める。
 「旅館安ら木」。旅館の名前が正方形の中に筆文字で収められている。
 二年前の取材で、ほとんどの旅館にお邪魔していた。好感が持てるところと持てないところがあった。何が悪いわけでなく、自身の好み。「安ら木」は庶民的で入りやすく、良い旅館だった。取材に応じてくれた従業員のおばさんは元気だろうか。
 「安ら木」は谷の崖に建っていた。石段を上がると、旅館名が入った暖簾が掛かった引き戸がある。旅館内は電気が照っている。電気が付けられているだけで安心する。お店は入りづらい電気と入りやすい電気がある。ここは入りやすい電気だ、と班目。薄暗い所に居続けたせいか、照明に目がやられる。
 紙パックの自動販売機が急にハム音を立てる。床は赤絨毯。右手の和室に「休憩所」「お茶を入れてあります、ご自由にどうぞ」の紙がある。部屋を覗く。机の上に電気ポットが見える。レジや金回りを経由せず部屋に入れるようになっている。二年前には気がつかなかった。町にない心配りを見られただけで来て良かったと思えた。
 階段を下りる。下の階に照らされた明かりを目指す。小さなロビーに人がいる。緑色Tシャツを着た黒い髪をした中年女性はこちらを見上げると、カウンターに入っていった。あの取材の女性に似たおばさんだ。
 何十分かぶりの人影を見て一瞬たじろぐ。異端探検の気分を変える。健康ランドより旅館の温泉に入りたい。週六日の勤務中、温泉のことを考え続けたのだ。そのためには予約制かどうか確かめねばならない。
「いらっしゃいませ」
「日帰り入浴できますか」
「八百円です」
 予約制ではなさそうだ。
 お金を払う。財布をリュックに戻そうとする。
 女性店員が声をかけた。
「ロッカーがないんですけど、貴重品を預かりましょうか」
「そうですね、お願いします」
「旅館を出る際は、番号札を出してください」
 財布を店員に渡した。「五番」とボールペンで書かれた、よれよれの橙色の紙をもらった。
「温泉の場所ってわかりますか」
「いえ」
「このまま階段を降りていくと、ベランダに行きます。そこを曲がって歩くとトイレがありますので、その隣に旅館を出る扉から一度外に出ます。少し進むと左手に下がる階段がありますので、そこを降りていただいて、男湯、女湯と書かれた暖簾がぶらさがった脱衣所がありますので、そちらで入浴ができます。一応看板が出ていますけど、もしわからなかったらまた聞きに来てくださいね。ごゆっくりどうぞ」
 財布をスーパーで魚を入れるような小さなビニール袋にくるんだ。店員は奥の部屋に消えていった。
 言われたことを頼りに旅館を進む。檜で作った机や椅子が並んだ食堂に出る。ベランダに男二人女一人が何か食べている。この旅館には人がいる。
 通路を右折すると、旅館を出る引き戸がある。路地に出ると、追いかけっこをしている子供二人と、それを厳格な顔で見張る若い母親がいる。
 丘の上に民家がある。壊れた犬小屋。積み重ねられた鉢植え。上半身と下半身がばらばらになった「七人の小人」の陶器。家の端に捨てられているごみが入浴客から見える。
 「入浴所」の看板が岩肌に付いている。四隅が錆び付き、左端が折れている。矢印の先の狭くて暗い石段を下りる。左に掛けられた男湯の暖簾を発見する。

 班目の頭の中は女性店員のことで一杯だった。財布を返してもらうため、再びあの店員と立ち会わなければならない。
 カウンターに居たのは中年女性ではない。パーマを当てた小太りの五十近くの二年前取材した女性ではない。班目と近しい年齢の女。顔元ほどで収まる黒い髪と端の尖った目をした、活気づいた声と顔立ちと、親しい間柄のように笑いかけてくれる対応をしてくれた、同じぐらいの若い女。


   湯谷温泉のあの娘Ⅲ


 待ちに待った温泉。
 更衣室と浴室を仕切るドアがない。外と男湯とのドアもない。外からは丸見えだ。服を入れるための薄桃色のかごが棚の上に並ぶ。自然岩の大きな穴ぼこに湯が溜まる。囲いの外からは、霧に覆われた谷や浮き石吊り橋などが視界に入る。
 班目が立ち上がり、やせ細った上半身を外に晒す。轟々と空全体を怒らせながら暗雲が膨張している。風が強いわけでもないのに、入り口の暖簾が乱舞していた。湯に浸かる位置が悪いと、視界の端でちらついて、人が入ってきたのかと何度も神経がぴくりと過剰反応するのだった。従業員が、たとえば先ほどの受付の店員がやってきて、入浴中の自分などお構いなしに風呂掃除をしだすのではと勘ぐったりするのだった。
 あの店員の容姿が誰かに当てはめられそうで、幾つか似た顔を探る。
 石川秀美が浮かぶ。1982年にデビューした昭和のアイドル。西郷秀樹の「HIDEKIの妹オーディション」の二回目で優勝した石川秀美薬丸裕英と結婚して、名前が薬丸秀美になった石川秀美。この前録画したテレ東特別番組「初代昭和のアイドル名場面集」にて、青いワンピース姿で「HEYミスターポリスマン」を歌っていた石川秀美。歌い終わった後も目を潤わせ、指でピストルを形取り、顔を力強くカメラに向けたまま、堀ちえみにフェードアウトされる石川秀美
 石川秀美似の女性店員と直面する。数分後に。余計な思考が班目を落ち着かなくさせる。
 湯から出ることにした。タオルを絞って、身体を拭く。ドライヤーがない。しっかりと髪の水分を取る。薄ピンクのかごは洗濯物入れのよう。下着と濡れたタオルを持参したビニール袋に入れる。服を着る。
 庭を経由。丘の家の住人と思わしき親子はいない。旅館へ。通路途中のトイレで小水を済ませる。鏡を前にする。高校時代の眼鏡をかけた、目の窪んだ男と目が合う。笑いかけると男も笑う。
 カウンターは誰もいない。机の金メッキのベルは噛んできそう。触るのをためらう。ベルを鳴らす。奥から女性が返事する。声の主はあの店員だ。勤務時間は朝だけでない。フルタイム。
 店員がカウンターに立つ。
「お願いします」
 番号札を渡す。店員は再び奥へと去る。
 柱時計が堅実な音を立てている。壁のポスターが並ぶ。S市の夏祭り、山が燃えているイラスト火の用心。スジャータのソフトクリームがバニラ、チョコ、抹茶、ストロベリー。
 店員がビニールに包んだ財布を抱える。ビニールは向こうで回収される。財布だけ受け取る。
「すいません」
 夏のお祭り一緒に行きませんか。
「アイスクリームください。味はストロベリー」
 ストロベリーのアイスクリームお願いします。店員が奥の事務所に呼びかける。
 注文が来るまで二人きりになる。
 店員は横を向き、涼しい顔をする。唇を横にきゅっと結ぶ。少し口角を上げ、緑色のTシャツを着た仲間がソフトクリームを持ってくるのを待っているかのよう。
 「話しかけてもらえる」。願望を捨てる。「雨降りそうですね」。班目から口を開く頃には、隣の重たい扉が開く。カウンターの店員より少し下ぐらいの二十歳ほどの小柄で茶髪の女性店員。アイスクリームを片手に持って、注文の品を差し出してくれる。それを受け取る。背中を丸めて、いそいそと旅館を去る。
 旅館通りには人の姿が現れるようになる。足早に温泉街道を駆け抜ける。
 広場を見つける。コンクリートの楕円に座る。リュックを下ろす。小物のファスナーを開けて、仕事用のメモ帳とペンを取って書き出す。
(せめて、自分が興味を持った相手には、自分から話せるぐらいの準備を常に持ち歩くべきだった。不意打ちではあるまいか。しかし再び財布を受け取るまでの間に、人と話すスイッチを入れておくだけの猶予はあった。愉快な方の班目喜吉がピエロの格好をしてお尻のちっちゃなまんまる尻尾をふりふりさせながら、迫りに乗ったところまでは行ったのに、スイッチが入ってくれなかった。舞台に上がれなかったのだ。本当に悔しい。普段人のことなんかどうでもいい、というよりあまり関わらなくても事が過ぎ去りすぎるのでそうしてきた怠慢(顔面含め)が、己に罰として返ってきたのだ。普段からしっかりしていれば、あの娘に自分から話しかけることもできたはずなのだ。愛想の良いあの娘に、世の終わりのような面をして、恨みが募った顔をして突っ立っていた自分が恥ずかしい。彼女がカウンターから身を乗り出すのをやめて、事務所の方に身体に向けた時、まだ勝機はあったのに、自分の中でなにかがぷつりと弾け、そんな些細なことでタイミングを失った気分になったのだ。またこの地に来ればいいではないか。いや、もうきっと来ない。温泉街の看板娘にちょっかいを出すなんて心許ないから。旅での人との触れ合いを、ささやかな会話を望んでいただけだから。二回目のそれは旅ではなく、自分の中で女を作りに行っている行為として判定されるから。それは自分が望んでいたものとは別だから)
 雨が降る。荒れると行けないと、メモとペンを片付ける。文字は七枚に渉る。枚数の多さに驚く。
 車に乗り、駐車場から出る。百五十一号線のカーブ道に揺られる。デジタル時計は午後二時半を過ぎている。
 あの女性店員の顔を思い浮かべる。店員は石川秀美に似ていない。
「明日も仕事だ」
 大雨になるのでは。予感は外れる。K市に戻っても、天気は荒れない。雨雲が様子を見るように天井に長々と居座るだけだ。

 


   アメリカ白熱教室Ⅰ


「おい、班目」
 元々班目はレールの接続作業のために雇用されていた。一ヶ月が過ぎると、レールにキャップという黒いゴム製の固定具をつける作業に移行した。いつかは接続作業に配属されるものだと思いながら、二年間レールにキャップを打つ毎日を過ごした。
 周りに目もくれずに早く作業する。勢い余って、度の厚い眼鏡が直レールの束に落下しそうになったので、それを手で防いだ。
 ベテランの今野哲二が声をかける。
「班目」
「はい」
「四度も呼んだんだぜ。気づかないとはどういうことだ。作業にのめり込み過ぎるなよ」
「すみません」
「工場の仕事は作業に集中していればいいってもんじゃない。連絡事項をとることも、頭の片すみで残しておかないからこうなるんだ」
「頭の片隅、ハイ」
「レールが引っかかるところに置いてたぞ」
「ええっ」
「一回痛い目を見ないとわからんのか。俺が引っかけてやろうか。あっはっはっは」
 昼休みになる。一部の従業員は外出し、自宅へ、または駐車場に停車した自家用車で、一時間の休息を取りに行った。大半は鉄工所内の片隅のほんの小さな空間にある休憩所に集まり、全員で長机を囲むのだった。
 通路には人が溜まり、水道から出る水で手を流したり、トイレに列を作ったりしていた。班目もその二つが済むと、弁当にありついた。
 弁当を食べ終わると休憩所から去る。作業場に向かい、段ボール置き場から一枚拝借すると、部屋の隅の床に敷いて腰を下ろす。背中を丸めて、顔をひざに埋めて目を閉じた。所長やベテラン勢の世間話、鉄工所の現状などを盗み聞きしながら、鉄工所でないどこかの空間を彷徨っていた。


   アメリカ白熱教室Ⅱ


 午後六時半、班目退社。吐き出されるように、鉄工所から自転車で飛び出す。
 自転車は十六歳のときに両親に買ってもらった自転車を使う。十五年間雨風にさらされて、チェーンもロッドも錆びつき、漕げばキイキイと音が鳴り、ブレーキをかければ首を絞められた雌鶏のような金切り声を上げる。
 五月中旬の夜に染まりきらない崩れかけた夕日を受けて背中が熱い。大通りの国道の歩道を走行した。
 畑巣団地は三階建てだ。薄れた黄色のしょんべん色の蛍光灯が通路を照らしていた。駐車場には、「入居者車輌以外の駐車を禁ズ」と書かれた看板が有刺鉄線で柵に縛りつけられている。
 自転車を団地の隅の置き場に停めた。いつもその空間だけ溝や錆臭い。
 手前の壁にもたれている、二台の朽ちた自転車のせいだと班目は思う。誰も匂いの元を片づけない。
 ある日のことだ。不意に足が当たってしまい、もしくは班目が来るのを待っていたかのように、自転車二台が地面に倒れた。班目は忌々しそうにそれに触った。自転車を立たせた。それからしばらく手に吐瀉と排水溝の匂いがまとわりついた。石けんで洗うが、うっすら匂いが残るのだ。
 急に倒れたりしないだろうか。早く片付けてくれないだろうか。誰か申し立ててくれないだろうか。びくびくしながら、足早にその場を去った。
 二○三号室に着くと、靴を脱いで外向きに直した。大学時代からのクセだ。
 十年靴を靴箱に片付ける癖を付けよ。十年物事を続ける癖が身につく。新聞の記事で読んだ知識を実践したままだ。
 リュックサックを床に置くと、ゆっくりと二つ折りにくたびれていった。外に干してあった布団を床に投げて、班目の身体が横に倒れた。
 あたりが完全に暗くなる頃には気力が幾らか戻った。釜揚げうどんをこしらえると、テレビをつけて録画しておいた「NHK名曲コンサート」を再生した。オープニングに「熱き心に」をひっさげて小林旭が登場した。
 その後ろで登場歌手が手拍子で参加する中で、ブラックスーツに身をまとった山本譲二がシンバルを鳴らすような動作をしていた。無意識に石川秀美を探す。岩崎宏美が出演していることそれ以上は望まなかった。石川秀美はメディアには滅多に現れないことを班目は理解していた。
 班目は押し入れの中で昨日の湯谷温泉の出来事を思い返していた。カウンターの店員、あの娘の入浴所の場所を説明する姿を、台に乗りだして、方向に指を向けて喋っているときの表情を間ブラの裏に再現させた。それが上手くいくと、湯谷温泉街道を彷徨い歩いて蓄積された暗いものが、ぱっと吹き飛んだあの感覚を呼び起こした。
 暗闇の中でぼんやり想像に浸っていると、正面の段ボールが置かれているはずの場所に、班目喜吉が現れた。同じ姿勢の自分自身と向き合った。
 意気地なし。
 時間が気になりだした。襖を開けた。地上の様子を偵察する天使の気分だ。押し入れからでも時計が見えるように方角を調節されており、午後十一時を指していた。一時間後には就寝しなければならなかった。班目は睡眠時間が六時間半以上とらないと途端に能力が低下し、職場のお荷物になるということを経験上理解していた。
 押し入れからよろよろと身体を出して、部屋の中に戻った。蛍光灯のスイッチを入れて明るくした。静かな部屋が寂しく感じ出して、何気なくテレビのスイッチを入れた。
「先に言わせてもらえば、俺はペテン師みたいなものなんだ」


   アメリカ白熱教室Ⅲ


 「アメリカ白熱教室、テーマ、意識の持ちようで変化が起こる第一回」と右上に小さくテロップが出ている
 短い髪に長身で百八十はありそうな日本人だった。四十後半あたりの中年の男だった。(講師)は英語で話していた。それを日本語訳したものがテロップで流れ、渋い声の吹き替えがつけられていた。
 緑色のジャケットにマスタードイエローのネクタイ。何かオレンジ色の糸で文字が刺繍されているが、小さくて読めなかった。グレーのズボンにアディダスのジョギングシューズという、アメリカを意識した格好だった。
「君が本当に信頼できる友人や恋人を欲するならば、幾つかの自己啓発書を手に取ったことがあるはずだ。相手の目を見て話す、人に関心を持て、聞き上手になれ、自分のダメな部分をさらけ出せ、自分に自信を持てと」
「NHK?」
「君ならそんなこと熟知していることだろう。しかしそれだけでは人と付き合うとなんていうことはできない。そのげ」
 リモコンの適当なチャンネルボタンを押す。(講師)の声が部屋から消える。幾らかチャンネルを切り替え、あの番組がNHKで流れていることが分かる。
 (講師)の顔がパラソニック二十インチの液晶画面に戻る。
 (講師)という男からカメラが外れ、受講者が映し出された。腕組みをして睨みつけるスキンヘッドの黒人、革のコートに白いシャツ姿に眼鏡をかけた青年、次に夫婦と思わしき年のいった男女。
 どの生徒も(講師)の言うことに首を傾げたり、あくびをしたり、眉を上げて睨みつけたりしていた。メディカルコミュニケーターという肩書きを持っていると(講師)が説明する。生徒も班目も顔をゆがめる。
「今日みなさんへの処方箋は、『俺と会話すること』。この教壇に立つ俺と。俺は俳優をやっていた。数々の著名人との交流がある。ジョン・トラボルタデミ・ムーアマイケルムーア。彼らには実力があり、運気がある。彼らと週一度食事をしている。それよりも長いこと期間空くことも、うん、食事はしてるんだよ。彼らと対話してきた俺と会話をすれば、それが運気を分けることができる。君にもいい影響をもたらすはずだ」
 班目は夢心地になった。口をぼんやり開け、口の中に涎が溜まっていった。班目の今抱いた疑問に答えるかのように、夫婦風の女性に何かを尋ねた男性が首を振った。なにかを否定するかのような動きだった。
 一人のダークブルーのシャツを着た、黒人の青年がバッグにノートや筆記道具を詰め込んで席を立ち、後ろの扉から出ていった。
「この時間、俺は君と人間関係を築きます。俺は君の目を見ます。君も俺の目を見てほしい。俺は今年の八月何日かに五十二歳になる。年が近い人ならば、同僚として、年が離れていれば、教師として。君のしっくりくる設定を俺につけてくれればいい。スターバックスの店員なり、キングバーガーの店員なり、君の勤める大学やアルバイト先の清掃員なり、ビンカンボックスを漁る浮浪者なり、いくらでも好きなように」
 時計は十一時五十分を指していた。寝る時間が近づいているのを確認した。テレビを消したかったがそのまま班目は見続けた。
「俺は君に質問をする。何気ないやり取り、会話のキャッチボールをしたいと思っている。意味はどこにもあらず、お互い楽しいと思える時間になることを俺は願っているよ。今から君に発する問いを、声で答えるなり心の中で唱えるなり、それは君の好きにしてくれ。今日はこの講義にテレビクルーがカメラを回しているということで、俺はこの講義を六年間やってきたが、カメラが入ったのは初めてで、正直緊張しているよ。母国日本にも放送されるということで、とても誇らしい気分でここに立っている。そちらにもコメントを向けるなら、テレビを見ているあなた、不安がることはありません。君も俺のカウンセリングを受けることができるわけです。そうです。その三十二ピース入ったドーナツバケットを置いて、手に着いた油をなめとってからでも結構ですよ」
 軽い冗談を言った気がしたが、生徒も、テレビスタッフも、(講師)自身もなんの表情の変化もなく、誰も笑わないので、自分の耳が、感覚がいかれたのかと班目は思った。
「では始めましょう。二カメが正面。私の顔が映っていますか。オーケー」
 (講師)は楽しげに眉を吊り上げ、宴でも始めようといわんばかりに、手をこすり合わせた。
「あなたは今日、朝起きて現在に至るまで、楽しかったですか。それとも、辛かったですか」
 班目は(講師)の膨れ上がっていく微笑をただひたすら見ていた。一人一人に目線を合わせた。カメラが(講師)に、しらけた顔をしている生徒に、また元に戻り、今度は別の同じような顔をしている生徒に、行ったり来たりをくりかえした。(講師)が真ん中の生徒に行き着いたぐらいのところでいきなり吹きだして、その時間が終了した。
「先生はこれで何万というドルを稼いでいます」
 白人青年が跳びかかる首をひねって、今にも飛びかかりそうだった。班目の心臓がどきどきした。
「もう一つだけ、心のトレーニングを、日々暮らすための意識の持ちようを、君に伝授してこの講義を終わろう。頭の中で常に鐘を鳴らすことだ。ゴーンゴーンと。他の人と違い、人との交流がない人ほど、余計なことを考えて、処理能力を遅らせてしまっている。鐘を常に鳴らし、人が近くにいる限り鳴らしていれば、よけいなことを考えずに済むようになる。同じ歩幅で歩くことができる。余計なことを考えて自分を見つめるような盲目な状態になりにくく、まわりを見る目ができてくる。いろんなことに気づくことが増えてくる。特に対人関係に有効なメンタルトレーニングです。人が近づくたびに、怖いと思ったら、鐘を鳴らすんだ。怖ければ怖いほど、激しく。大きな音で。穏やかな君の表情を見れば、人も自然と寄ってくるようになるはずだ。これで俺の講義は終わりにします。さて君は今俺が喋ったことを明日にでも実行するかい。しないだろうな。こんな馬鹿げたことをするノリすらないから、現状があるのだから。ではまたこの時間に。ありがとう。サンキュー」
 会場が散ったような拍手が鳴った。遠くを見るような目をしているドレッドヘアーの黒人、青いシャツを着た白人、すでに講義室から出かかっている四人組の女子生徒がカメラに映し出された。
「NHKも物騒なもの流してるな」
 テレビを消した。時計が0時を指すと布団に潜る。


   アメリカ白熱教室Ⅴ


 翌日、鉄工所で作業をしている班目は、額に脂汗を浮かばせていた。ひどく工場内が静かに感じて気味が悪かった。目の前のものがクリアに見えた。見えるもの、聞こえるものが、ちくちくと刺さる感じがして、集中できていないときの鉄工所は、人がいるのにいないかのようだった。
 ふと昨日聞いたことを思い出した。頭の中の鐘を鳴らした。ゴーンゴーンと鈍い鈍器を叩く音が頭の中に、鉄工所の中に響き渡った。
 目の前が濁って歪んでしまえ。
 念じながら鐘を鳴らす。すると、自分自身がそこにいないかのような錯覚に陥る。
 アッ。班目はあることを思い付きそれを実行しようと持ち場を離れた。
「何をしているんだ」
 今野指導員だった。
「チューブが置かれていたので、先に片づけたほうがいいかと思いまして」
「先にか。うーん」
「余計なことをしたかもしれません。すいません」
「いや。確かにそうしたほうが効率がいいかもしれん。いいよ。これで」
「ありがとうございます」
「集中することが作業じゃないからな。それがわかってくれるだけでいいんだ」
「ハイッ」
 班目は震えた。うまくいった。人と会話している感覚がした。壁に寄せられた狭い作業場所、一人で身体を震わせていた。
 いつも人と話しているときに感じていた違和感や、ずれが感じなかった。あの(講師)の言うところの、町の人が歩く歩幅というやつだ。それは今までたまにしか感じることができない、人とのつながりだ。
 これを常に装備しておけばどうだろう。自分は暗く重たい孤独に悩まされずに済むのではないか。人と同じように生きられるのではないか。このまま今野指導員と一日バスツアーにいける気さえした。長年連絡を取っていなかった昔の同級生にも電話をかけてみよう。今なら関係を取り戻せるかもしれない。
 話せる自分。明るい自分。前向きな人生。これは正しい感覚だ。
 ゴーン、ゴーン。
 勤務中、頭の中で鐘を鳴らし続ける。鐘を鳴らしていると、次から次に楽しいことが思いついた。鐘の音は眠っていた神経を刺激する。簡単に楽しい気分になれた。
 午後三時半。休憩の合図「ラデッキー行進曲」がスピーカーから音割れしながら鉄工所内に鳴り響く。
 一番手で休憩所に直行する従業員の杉浦の手により、鉄工所のあらゆる照明が消される。機械の置かれていない長方形の窓からは、熱光線のような西日が溢れる。班目が休憩所に戻るときに西日越しに作業所を覗く。三時半で勤務が終了する従業員が黒い影と化し、わらわらと蠢いている。
 頭の中の鐘を鳴らす。意識の持ちようを働かせる。波長のチューニングを調節する。これまで他人だと思っていた従業員が仲間に思える。
 仕事仲間という言葉の意味を三十一歳で初めて知る。


完全なる暗闇Ⅲ


 班目は想像上で鳥になる。アパートの押し入れから飛び出し、上空へとひれをなびかせる。何層にも重なる雨雲を数十秒潜る。雨露や灰色の雲が身体に絡みつく。層を超えると、雲の上に、大きな青い月の正面に現れる。雲のグラウンドは、青い月光に照らされ、クリスタルのように輝いた。
 鳥はやめた。空を漂うから鳥になる。それでは自分の頭が固いような気がする。空に浮かばなさそうなものにする。なす。蹴鞠。ナゲット。お墓。お墓にする。月と雲の高速道路にびゅーんと飛ばす。対向車線に赤と緑のライトが光る航空機。黄色い標識に「風船注意」「鳥注意」「仏さん注意」。雲の連続する高架橋に浮いてきた仏さんをお墓でびゅーん。

 

   意識の持ちようⅠ


 この一週間、あまり疲れを感じずに終わる。ピークにも関わらず。それも「頭の鐘を鳴らす」という「意識の持ちよう」による効力だと実感する。
 第二回のアメリカ白熱教室が待ち遠しかった。コミュニケーターというフレーズは伊達ではない。月曜日まで待てなかった。
 それは土曜日の夜に放送される。時間帯は同じ。
 チャンネルを回して良かった。危うく麦茶を飲んで眠るところだった。
「今回の意識の持ちようは、硫酸で顔を溶かすといい」
 変な間を作っている(講師)の姿を、班目は肘をかけながら見ていた。
「実際のものじゃなくて、頭の中の硫酸で顔を溶かすんだ。人は常に自分の顔というものが思い浮かんでいる。今自分の顔がどんな顔をしているのか、 実際より下の顔にすることで、むしろ造形をなくしてしまうといい。ぐちゃぐちゃに。跡形もなく。目玉もなくなる。君の顔から放つレーザービームが消えて、相手の人は強い視線を感じることなく、話しやすい雰囲気ができる。口も、鼻も、濃いのがコンプレックスなら髭も、顔にコンプレックスがある人間なら、硫酸で溶かしてしまえば、負い目はなくなる。相手は雨上がりの土砂を見ているだけにしか感じないのだから。あなたはもしそこのテーブルに置かれたコップが話しかけてきたら、緊張するだろうか。コップでなければ、削りかすでも、耳垢でもいい。人が話しにくいと思うのは、人の形をしているからであって、自分と同じ土俵に立っているからであって、年齢や学歴、容姿や声のでかさがあるのからなのであって、土砂であるならば、なんの変わりもしない。ピアノの発表会などで緊張する子供に、観客をかぼちゃだと思いなさいというものがあるが、それを己に当てはめたものだ。自分が人間であるから、人間として生きようとする。顔がどろどろの土砂であるなら、人間としても道徳や責務から解放される」
 生徒の態度が鼻につく。
 うさんくさそうに睨みつけるデイヴィッドボウイ似の金髪坊主の青年、後ろの暗がりでこそこそ(講師)を盗み見て、どうやったらあいつを二度と教壇に立てなくさせられるか会話をしていそうな下品な笑みを浮かべている四人組。左側出口付近の席で机に突っ伏して完全に眠りについている長身の女学生。
 試しにやってみる。顔を硫酸で溶かして潰す。土砂顔にする。その言葉を自分自身に入れ込む。言葉の響きを利用して、それを自分の顔面に照らし合わせる。頭の中にいる、居間にいる自分の顔が、赤くただれて、赤い泥を胸に膝に垂れ流す。さらに意識を強めた。右手を挙げて、身体を起こして、泥人間である自分を実際に動かす。
 自分の姿はどこにも在らず。八畳間にいるのは半袖と半ズボン姿の人の形をした泥柱だ。
「ひひひ、うまくいったゾ」
「今度の『意識の持ちよう』は紙が必要だ。そこに質問を書いてほしい」
 蛍光灯で照らされている講師の顔は青白く、目がぎらついてぷかぷか浮遊しているように見えた。
「君が選ぶべき対象は、今。今思った人、頭に浮かんだ人だ。誰でも構わない。思いついたことをぶつけるだけだと、側頭連合野という一部しか脳は働かない。考えてから喋ることで、脳の活性化につながり、ニューロン網というネットワーク神経が鍛錬されていく。質問ノートを書いているときにも、同じ効果を確認できた。脳に管を繋げて測定してな。実際、俺もその恩恵を受けている。今度君に見せるために質問ノートを持ってこよう。何百何十何冊目のノートがいいだろうか。あっはっは。最初はオードリー・ヘップバーン宛に書いていた。誰だっていいんだ。相手はいろいろ変えて書いているが、その特訓のおかげか、一つの趣向を聞きだせば、質問をいくつかひり出せるようになった。ある程度は。人間関係のトレーニングだというと馬鹿らしく聞こえるかもしれんが、君が毎日人と会わないような職業に就いたら、自分から休日人のいるところに行かない限り、どんどん会話する能力は衰えていくだろう。職業に就く就かない、人と顔を合わせているだけ、どちらにしても、機会がなければ自分の意志がなければ、話すこともおぼつかなくなる。これはそういう人のための応急処置だ。会話できるというのは自分は悪い人間ではないという証明程度にしか過ぎず、最低限の礼儀であり、仲良くなったり、それ以上の話をしたいのであれば、また別の方法が必要になる。質問は相手との沈黙の間を埋める程度で、距離は特別縮めることもない。だが、少しはとびっきりの質問が、君の本当に聞きたいと思える興味が湧いたら、自分から話しかけてみようかと思うだろう。そういう小さな進歩が積み重なれば、自然と苦にもならなくなってくることだろう。相手に対する興味も湧きやすくなる。興味なんて沸く努力をする必要なんて全く沸かなくなるよりかはましだろう。とびっきりの良い質問を送ってあげると、その人も驚くだろうし、話が弾めば、君のことが忘れられなくなるんだよ。そういうことが、興味のない相手にも、誰でも、親しい関係を築けるようにになるんだよ。時間がないので最後少し早口になりましたが、どうかこのトレーニングをやってみて欲しい。センキュー。今日もありがとう」
 班目は電気を消す。暗闇マニアの班目には満足度の低いグレイになる。押し入れ用とは別の就寝用のアイマスクが本棚の近くの床に落ちている。取りに行く気力がない。密度の低い暗さに不安を感じながらストレッチをして体をほぐす。布団の中に入る。目を瞑る。
 質問する相手。その人物はすぐ決まる。


   意識の持ちようⅡ


 まただ。班目が応援するお笑いコンビ「あんちょくキング」がネタ番組ロケットボーイ」で勝ち抜けなかった。定番のネタ「メデューサ」で挑んだのだ。
 もっと後半たたみかけるようなネタが「あんちょくキング」にはあったのに。単独ライブで大ウケしたネタ「キャバレー」なら対戦相手の「怒りと悲しみ」に勝てたのに。
 「意識の持ちよう」を実践すれば良かったのに。泥柱で様子を見、頭の鐘でブレーキを掛け、チューニングを駆使した上でお客さんの懐に入っていけば良かったのに。


  意識の持ちようⅣ


●メジャーな意識(自分には合わなかった意識)●

  自分に自信を持つ、笑顔、相手の目を見て話す、
  明るくする、はきはきする、姿勢を正す、リラックスする、落ち着く…

●頂いた「意識の持ちよう」 マイナス人間にはマイナスを合わせることでプラスになる!●

  頭の鐘を鳴らす、顔に硫酸をかける、老人化、
  顔を皺だらけにする、その空間にいる誰よりも弱者になる、
  下を向く、視界を潰す、声を潰す、
  シラフでいない、人相の悪い汚い子供、宇宙飛行士の格好、
  この世に自分の居場所などないと自分にわからせる、
  魂は天井に跳ね返る空気に宿る、肉体はリモコンによる電磁波で作動する洞窟、
  頭の中をショートケーキやモンブラン、甘くておいしいものでいっぱいにする…

 最近、調子が良い。「意識の持ちよう」の効力だと確信する。押し入れにこもる習慣もなくなる。テレビを見るときも「意識の持ちよう」を働かせる。時間が少し鈍くなる。見えないものが見えるようになる。
 「意識の持ちよう」さえあれば傷つくことなく仕事を無事終えられる。周りの反応が違う。今野指導員。いつもは怖いアパートの背丈のある従業員の人。道ですれ違った女の人。
 湯谷温泉のあの娘とも。きっと。
 「意識の持ちよう」を知る以前の自分が恥ずかしい。
 ピークが過ぎたら日本海に行こう。旅館に予約を入れて、室内の木目の匂いを一杯吸おう。見知らぬ喫茶店の巨大ロールケーキを食べに行こう。ようやく自分も真人間になれたのだ。


   まともな人間


 仕事帰りにドラッグストア「Qすり」に寄る。かごにバス洗剤とシャンプーとリンスの詰め替え用を二セット。それらを入れると、レジに持っていく。
 三つのレジに三人の女性店員が立っていた。会計する客はおらず、かごに商品を入れて登場した班目を見つけると、真ん中の背の高い茶髪の店員が対応した。どことなく冷ややかな三人の態度に、班目は頭の中で鐘を突き、硫酸で顔を溶かすイメージを自分自身と重ね合わせた。「意識の持ちよう」の調節は好調だ。
 女性店員の存在感が徐々に遠ざかっていく。自分の肉体を肉体と認識し、少し落ち着きを取り戻すことができた。扱いやすい人間になれている確信がある。
 のろのろとかごをレジのカウンターに置く。鐘やら硫酸やらで意識を乱しているため、てきぱきと動くことができない。気が狂うほど長い時間に思える。今、自分が若い女性の前に立って、バス洗剤とシャンプーリンスというささやかな買い物をする事がとてつもなく困難な作業のように思えるのだった。
 茶髪がバーコードを通していった。右の黒い髪を後ろに束ね、前髪を分けた小柄な女性店員が、商品を袋に詰めようとした。
「袋は大丈夫です」
「なんですか」
 声が小さいことはよくあった。右側の店員に声をかけると、
 茶髪の店員がじっと見ている。視線がマイナスドライバーのように鋭く感じる。何かを探る目だ。
 肌色の作業服。鉄工所内で棒にレールをとりつけるだけの簡単な仕事をしているだけの人間。それを見透かされているように感じる。気の遣う必要のない人間を見るときの目に感じる。
 結果はまだ分からない。最後まで諦めない。このドラッグストアに誇りを保ちながら無事に店を出られることを切に願う。
 頭の中の鐘を鳴らす。硫酸はやめる。あのときの今野指導員の成果を上げた、鐘を鳴らす意識に賭ける。
「袋は大丈夫です」
「しるしだけつけておきます。三五六円のお釣りです」
 小銭を受け取る。もたもたしながら財布に入れる。
 両端の店員はどこかきょろきょろと店内の遠くを見やる。正面の茶髪の店員はしゃがみこんで、カウンター下の引き戸の中を整理し始める。
「ありがとうございます」
 言ったのは客の班目だ。背中を丸めて頭を下げる。
 左側の顔立ちも姿も虚ろにしか映らない女性店員は、ずっと班目を見る。その目は不審者を見るようなものだと受け取れてしまう。
 そのまま、袋を持って、店の出口に歩き続ける。三人の女性店員は、ありがとうございましたという言葉をかけない。班目がそこに存在していないかのようだ。元々職場で、外で存在を消すための意識の持ちようであり、効力をいかんなく発揮したわけだが、始終白い目で見られていたことに静かに傷ついた。
 疑いの目。汚いものを見るような目。薬物中毒者を見ているかのような目で見ている。どうかしてしまった人間を見るときの目。班目はこの頭の鐘が原因だと思った。
 あの女たちにはわかるのだ。俺が頭の裏で小細工をしていることを。間違った意識を働かせていることを。自分がまともでないことを見抜いたのだ。間違った行為をしているから、まともな人間世界の常識外の振る舞いだから、彼女らは外れ者の自分を対応するわけにはいかないのだ。彼女らはまともな人間世界の常識に沿って今日を生き抜いてきたのだから。
 灰汁色の雲が支配した陰気な夕方だった。頬に当たる風は湿気っていた。班目は自転車を走らせた。暗い顔をしていた。自分は二度と人と打ち解けることはないのだとか、いろんなことが頭を支配し、嫌な気持ちになった。
 ひしめき合う民家や家の畑の草草とした匂い、角の家に建てられている謎の豚のスプレー缶の落書き。団地に越してから二年になるが、何度と見た帰り道に苦痛を感じ始めていた。班目の頭の中はもう鐘は鳴っていないし、今後二度と鳴らすことはなかった。
 自室に戻ると、電気をつけず、薄暗い中に倒れこんだ。そのまま脱ぎ捨てられた衣類みたいな姿勢のまま一時間が過ぎた。
 薄く目を開けていると、暗闇に溶け込んで輪郭しか見せない、机が、二十インチのパラソニックのテレビが、スチールラックが、捨てられずにいるスピーカーや湯たんぽ、電気あんまなどが入っているかごが、部屋のありとあらゆるものが瞼によって、音を立てて押しつぶされていくようだった。


   透明な時間Ⅰ


 日曜日の時刻が九時になる。開店したスーパー「ゲルマン」の自動ドアが開く。特売セールを目当てにする人々の塊が溶けていく。班目もそれに続く。
 店内の入り口に両脇に二人の店員が分かれている。いらっしゃいませと挨拶をかけてくれる。かごを手渡ししてくれる。
 一週間分の食料を溜めた。ヨーグルトの陳列棚からレジを様子見を済ますと、サービスカウンターの近くの一番レジへと仕掛けていった。
「いらっしゃいませね」
 六十近くの初老の胸には、うめみや、という名札が付けられていた。日曜日の午前中のみ存在する店員、というのは班目の統計上そう出ていた。班目はこの男がいるときだけ買い物をした。
 男の近くにいると酸っぱい匂いがした。下を向いたまま、値段を呪文のように唱えていた。
 身体を小刻みに揺らしながら、商品のバーコードをレジに通していった。呆けた様子だったが、商品がバーコードを通らずに、そのまま黄色の会計用のかごに入れてしまうようなことは一度もなかった。男のゆったりとした動作を班目はなんとなく見つめていた。
 後ろに並んでいたジャージ姿の体つきの大きな男の持ったかごには、たくさんのオレンジジュースのパックが入っていた。見ているだけでチャプチャプと音が聞こえてきそうだった。大きな男は、他のレジの列へと移動していった。
 他のレジの店員が日曜日の特売日に並んだ客を手際よくさばいていた。髪が長くて、隠れたところからぶつぶつが顔に吹き出ている学生らしき青年。白髪まじりの髪をピンで留めて団子になっている中年女性。背が高い細身の女性。
「3218円お願いしますね」
 緑色で表示されたレジの購入金額を確認して、お金を支払った。
「ありがとうございましたね」
 班目の調子の良し悪し、どの状態に訪れても梅宮のおじいちゃんは機械のように態度が変わらない。梅宮は軽く頭を下げた。
 班目は梅宮の接客が好きだった。


   透明な時間Ⅱ


 今日も梅宮のおじいちゃんがレジカウンター1を担当する。当然そのレジで買い物を済ませる。
 梅宮のおじいちゃんがバーコードをレジに認識させる。買い物済み用の黄色いかごにゆっくり並べていく。梅宮のおじいちゃんがよろよろと業務を進めている。ありがとうございましたね、とゆっくりお辞儀をする。


   透明な時間Ⅲ


 梅宮のおじいちゃんがいない。先週もいない。


   透明な時間Ⅳ


 梅宮のおじいちゃんレジカウンター1には別の店員。茶髪の四十代後半の女性がいる。どのレジを見ても梅宮のおじいちゃん姿はない。
 一週間分の食料が詰まった買い物かごをレジカウンター1に持って行った。隅っこで陰りのあるレジなのに、店員の女性の仕事が速い。
「3567円です」
「すいません。一万円で」
 渡した一万円札をひったくるように掴まれた。お金はレジの中に吸い込まれていった。
「お釣りです」
 ジャラジャラとそれを受け取る。班目は自分の後ろを確認した。客はいない。今は忙しいわけではなさそうだ。
「すいません」
「はい。なんですかー」
「ここにおじいさんの店員さんがいたと思うんですが。よくこのレジカウンターにいた人です。しばらく見ないなと思って」
「勤まらなかったんですよ。年だし。作業も遅いし。無給でいいならボランティアもあるけど、誰でも入れるわけでもないし。今厳しいから。すいません。お客さんが並んでいるんで。いらっしゃいませー」
 班目が気がつかないうちに後ろにはごつい男がレジに並んでいて、班目を睨んだ(ように感じた)。頭を下げて、レジから離れた。
 もたつきながら食料品をレジ袋に入れて、足早にスーパー「ゲルマン」を後にする。アパートには帰らず、レジ袋を持ったまま、遠回りして歩く。七月の頭で、日を浴びていると頭が少しくらくらする。道ばたに黒い筋がコンクリートにへばりついている。ミミズの死骸だ。地中の生き物が初夏の熱線を浴びて干涸らびている。
 今厳しいから。
 今厳しいから。
 厳しい必要があるのだ。厳しくない方がいいじゃないか。世の中が厳しくても、自分は適応できる。能力が自分にはある。そんな自信が店員から見え隠れする。がんばっている人間の自信
 でもいつかはあの女性店員も年を取る。病気になり退院し、社会に復帰する。以前の自分でなくなっている。
 マニュアルとは違うかも知れない。社会には適応していなかったかも知れない。だが班目は梅宮のおじいちゃんの接客が良いと思える。
 がんばらねば。
 自分が頑張らねば。
 あの女性店員より強くならねば。
 間違っていると主張できるようになれるように。
 自分も梅宮のおじいちゃんのように社会から排除されないように。
 一割引きの豚バラ肉が横になって、レジ袋の底に赤い汁が溜まる。家に帰る。四十分近く近所の路地や山道を歩いていた。服をスウェットに着替えして、真っ暗な押し入れにこもった。


   悪夢の鉄則


 班目は家に帰ると、袋からポッキーの箱を取り出して、しばらく貪った後、冷蔵庫に買ったものを陳列した。麺を取り出し、調理台に置いた。キャベツをスライスして、フライパンで調理して、焼きそばをこしらえた。それを無音の中で食べた。皿を流しに持っていって片づけた。布巾で机を拭いた。木目が水気にぬれてきらきら輝いた。
 学生時代に使っていた底が破けた布上の黒筆箱を段ボールから出してきて、芝紫柄のB鉛筆を取り出した。ノートを机の上に置いた。ノートはこのあいだ段ボールを片づけていた時に見つけた、キャンパスノートを出した。
 班目がそれをめくると、日記が描かれていた。入社一か月ぐらいの思いが綴られていたそれは、三ページ分埋まっていた。
 その隣のページには、班目が自作した替え歌が載せられていた。ホラー映画「エルム街の悪夢」の、夢に出てくる女の子の縄跳び唄だ。一、二、フレディがやってくる、三、四、ドアに鍵をかけて、五、六、十字架を握りしめ、七、八、しっかり目を覚まして、九、十、眠りにおちないように。
 入社半年で悩んでいた自分が作り変えた唄はこうだった。

  土日 楽しいことをする
  月曜 やりとり間違える
  火曜 自分を叱咤する
  水曜 仕事の顔探る
  木曜 スタート地点にやっと立つ
  金曜 仕事が終わってる
  暗い顔でずっといる
  仕事の顔でずっといる

 班目喜吉が仕事をするための「悪夢の鉄則」。仕事をしているときの素晴らしいあの感覚を忘れないようにノートに書き記したのだ。
 その隣のページには当時流行ったJ-PONの自作の替え歌があった。

  DON DON 噴出する どうしようもない自分
  あくびしたでしょ つまらないでしょ
  しゃべる明るさ しゃべる落ち着き
  虚無に帰依する あたしの道よ

  DO NITI 止まない 戦のリズム
  背中を向ける 悪い子は誰?
  日曜の夜 黒くなる日記
  あたしの気持ち文字止まりなの

  GAYA GAYA うるさい 頭の声
  心の電話 かけるか迷う
  人と話すの 間持たないでしょ
  部屋暗くして 自分見つめる

 そのページを破いてごみ箱に突っ込んだ。握りつぶされて団子状になった罫線紙が形を元に戻そうと、力なく音を立てていた。ノートは新品同様になった。
 班目は首を一度回して、机に向かった。
 質問は箇条書きにして、左脇に並べるように書くようにした。ページはまだあったし、贅沢に使うべきだと思った。
 社長宛に質問を書いていった。二年間過ごしてきて、社長について知っていることを思い出した。
 鉄工所の社長をしていること。仕事ができること。きれいな背の高い奥さんがいること。睡眠時間が三時間しかないこと。「あらびき団」を観ていること。車の後ろに釣り人と筆文字で書かれたステッカーが貼ってあること。
 そこに関連するワードを罫線から上段の空白に並べていった。社長、仕事ができる、週刊誌の安いヘアヌード写真みたいな面長の女、徹夜した人みたいなテンション、お笑い、釣り。それらのちょこちょこした汚く書いたワードを見ながら、質問を探っていった。
 天井を見上げる。しょぼしょぼした目を正面の適当なところにもっていく。遠い目をしながら作業に取り組む。三十分で一ページが文字で埋まる。
 状況が変わればここに書かれている二十五個の質問の全てが使えなくなる気がした。二日もすればノートから質問の死骸の腐臭がし出す。そんな気がする。
 冷蔵庫から飲みかけの野菜ジュースを出す。コップに全部注いで飲み干す。カラカラになった脳みその砂漠に水が敷かれる感じがする。英気を満たした脳が言う。「今やっていた作業は無意味」だと。この作業の停止を薦めるのだ。
 しかし気になる人への質問をまだ書いていない。書いてみないことには死臭がするかわからない。
 質問したい相手は湯谷温泉の女性店員だ。


   質問ノートⅠ


 班目はカーテンを開けて、窓から見える景色に浸ろうとした。六月中旬の天気は陰湿な雲が上空に張っていた。暗闇の底へと堕ちた日曜日午後三時は、一か月前の湯谷温泉のあの日に似た空だった。
 班目は押し入れの、いつも自分が閉じこもっている場所とは違う右側の戸を引いた。そこから段ボールを外に引きずり出して中を漁った。湯たんぽや使えなくなったスピーカーなどに埋もれて、古本屋やレコード屋で買った、大量の五十円のCDが散乱していた。
 その中から、石川秀美の「ペパーミント」を取り出した。裏に貼られた値札シールで、他のものより何倍もの値段がついていることがわかった。セールの中には高いものがたまに混ざっていて、気が付かずにレジに持っていってしまうことがあった。
 班目はあの娘の顔を忘れていた。石川秀美に似ていないことだけは覚えていた。ジャケットの石川秀美は左手で後頭部の髪をむしりながら、頭を傾げていた。
 班目はしばらく写真を眺めていた。石川秀美のぱっちりとした目に惹かれてその瞳の奥を覗いていると、二つの穴に空洞のような立体感が生まれて、ひゅっと心が撫でられたような感触がしてジャケットを離した。写真からあの女性店員の面影を呼び起こすことは困難で、やはり似ていないということが確認できた。
 CDを取り出して、中古の白いラジカセで取り込んだ。音楽を再生した。座布団の上に座り、机に向かった。次のページからあの娘への質問にした。
 鉛筆削りが見当たらず、カッターの刃を出して、それで削った。削りカスが散らばり、芯の欠片がノートの隅に挟まって、ゴミ箱に飛ぶように手で払った。ラジカセからは「ゆれて海岸ロードに走るバックミラーに映る、江の島さ」と歌っていた。
 一ページ埋まると、次第に胸の奥が苦しくなってきた。人恋しさを感じ始めた。身体全体がひんやりと冷たくなり、満たされない飢えのようなものがこみあげてきた。一つ質問を作ると、あの娘の声がするのだった。顔は記憶から抜けてしまったが、あの表情や声は今も心に残っていた。
 自分自身に噴出していた陰気が消えていったあの瞬間を忘れるわけがなかった。この作業に精神の危険性を感じたが、質問はあれこれと思いついて、手が止まらなかった。
 石川秀美はすでに歌うのをやめていた。何も作動していない状態で十五分経つと、ラジカセが自動で電源が消える仕組みだった。シュリリイィィィィィィィィィンという、フレディが襲いかかってくる時の、金属が擦れるような気味の悪い音と共に落ちるのだ。班目はあの音が嫌いだった。曲を聴きながらうたた寝をしてしまっても、重たくなった体を起こして急いで電源ボタンを切りに行っていた。気がつくとラジカセから発する青い光が点っていなかった。
 夜が来て部屋が真っ暗になった。まだ文字を書く気力があった。三ページ分書き上げると、班目は作業を止めた。それから両腕を身体に巻き付け、自分自身を強く締めた。そのまま俯いてじっとした。心が落ち着くまでそこにいた。十一時から何も食べていなかったが、頭がきりきりと熱を帯びていて、何も食べていなくとも平気だった。
 電気をつけて、自分がどんなことを書いたか振り返ろうとした。湯谷温泉のことや、個人的なこと。「意識の持ちよう」のこと。
 キッチンで釜揚げうどんをこしらえる。テーブルに置くと、部屋の電気を消す。真っ暗な部屋でうどんを食べる。
 暗闇の中で、卵でぬるぬるした讃岐うどんを麺つゆと絡ませて口に運んでいった。ネギや七味唐辛子の味がした。ずっと毎日食べていたいと思った。いつかは飽きが来るわけだが、それが信じられなかった。釜揚げうどんを美味しいと思えなくなる日が来ることが、不吉の象徴のようで怖くなった。班目はもう一度、自分をぎゅっと抱きしめた。
 班目は空になった皿をしばらく眺めていた。頭の中は質問ノートのことでいっぱいだった。少し涙ぐみそうになると、頭を振って、うぅん、うぅんと唸って湧きあがる気分をかき消した。泣くことは悪夢の鉄則「楽しいこと」に値する。明日に仕事ができなくなる。


   意識の持ちようⅢ


 午前中で八束完成させるのが理想。所長から目標を具体的に提示された。班目の最高記録は六束だった。今宵打開する方法を立てて、明日にでも達成したい。
 班目は鉄工所から帰宅すると、浴槽に向かい湯を溜めた。作業着をかごに放って、風呂に浸かった。かみそりを手にして鏡を確認しながら顔の毛を剃っていった。白熱灯に当てると両頬がこけていて、楕円形の不吉な影ができていた。
 チェック柄のパジャマ姿で居間に戻ると、作り置きしていたカレーとキムチを取り出した。それらを混ぜて夕食にすると、熱いコーヒーをコップに注いで、ちびちび口に含んでいった。神経が高ぶったまま、物を考えるということがろくにできない状態だった。
 仕事の反省点を探す。改善策を見いだそうとする。二○十一年の紅白歌合戦に出場した和田アキ子を見たくなる。ステージの真ん中に立つ凜とした立ち姿と、バリトンボイス。「あの鐘を鳴らすのはあなた」を歌い終わると、金色の紙吹雪がステージを舞って、力強い表情のズームアップで終わるのだ。
 テレビを付ける。水曜日の午後十時。アメリカ白熱教室の最新の講義が映る。第一回は月曜の午後十一時。第二回は土曜日の午後十一時半。この番組は放送日がぐちゃぐちゃだ。
 テーマは「抜け殻と化した肉体に新しい魂を宿らせよう」。それを見終わる。リモコンのボタンを操作する。一年前の紅白歌合戦の録画を再生する。女帝の歌声が八畳の居間を支配する。班目はすがるような視線を液晶画面に向けるが、心はどこかに飛んでいる。講義が頭に反復するのだ。


   意識の持ちようⅣ


 意識の持ちようは二種類存在するということ。「自分を消すための意識の持ちよう」と「自分が在るための意識の持ちよう」。そのバランスを両立させることである程度の慣れない環境でも、肉体が宙ぶらりんになるような不安定なあの感覚や、頭が真っ白になって立ち尽くしたりすることもなく、自分のペースを維持し続け、周りの反応に対応できるということ。
 前回提示された、「頭の中で硫酸を顔にかけて原型がなくなるまで溶かす」行為は自分を消し感覚だということ。今回紹介された意識の持ちようは、「老人化」という、その空っぽの肉体に「役」をいれるというものだ。老人になることで、譲り合いの気持ちができ、弱いものの気持ちを考えることができる。老人になりきっているため、自分自身が傷つかずに済むという効果の内容。
 あなたはあなたのまま、どうしようもないクソみたいなあなたのままで、世の中を渡れるプログラムを用意してあります。その心の檻にアームをつけてみたり、ウォシュレットをつけてみたり、暗いところでも鉄格子が蛍光に光るようにしたり。他にはない意識の持ちようを無料でかねそろえております。
 講師はカメラに向かって手振り交えて熱弁する。今回から講義室での生徒の出席率や態度や存在の有無など、周囲の様子がわからない。カメラが(講師)に固定されているのだ。
 三分十八秒のステージが終わる。テレビを消す。しばらく音のない部屋を眺めていた。腰を上げると、部屋の電気も消して押し入れへと入っていった。座布団の上にある外国製のアイマスクを手探りで見つけて、それを装着した。座布団に腰を下ろした。膝を抱えて座った。目をつぶっていた方が明るいため、暗闇の中で視線をあちこちに向けていた。意識の持ちようとは何なのか、自分なりに回答を出そうとした。
 人前に姿を現す、言葉を交わす、他人が関わる行為全て、出血に似ている。傷がひどい場合、応急処置が必要だった。さらしを巻いて止血するが、刺し傷箇所や出血量が多くて追いつかない場合、やむを得ず意識の持ちようで痛みだけでもごまかすのだ。
 意識の持ちようとは、応急処置にも満たない脳味噌へのペテン。
 (講師)の第一声を思い出す。
「先に言わせてもらえば、俺はペテン師みたいなものなんだ」
 それを考慮に入れた上での、一ヶ月体感した班目なりの回答だ。
 妄想の彼方へ避難して態勢を整えようとした。無意識の翼を羽ばたかせ、意識に休息を与えて、目覚めた感覚を残しながら夢の中にいるように仕向けていく。景色を全面に映し、自分が操作したいと思う肉体を想像し、魂をそこに憑依させるという手順で、あっちの世界の住民として手足を動かすことが可能になる。
 暗闇の中で人影が揺らいでいると部屋の明かりが戻る。質問ノートから一枚切り取り、どのような手順で八束製造が可能なのか、紙に書き出す。
 作業をいかに効率的にするかより、自身の中の甘い考えを抱いて作業の手間になっているのかも考慮した。「老人化」で通常の能力以上の成果が出せるかもしれないが、それが失敗したときのことを考えての作業だ。
 午前零時になると、日付が切り替わる。班目喜吉は三十二の齢を迎える。いつピークは終わりを迎えるのか、いつ土曜日が休日となるのか。
 一生この生活が続くのか。胎児のように身を縮ませる。布団の奥へ奥へと潜っていく。


   完全なる暗闇Ⅳ


 この日の夜は押し入れでなく居間でテレビを観て過ごす。
 次の日、心と肉体のバランスが一致しない。ちぐはぐな事ばかりする。ひどいミスをして今野さんに目を付けられる。悲惨な木曜日と化す。
 勤務中ずっと己を責める。押し入れにいなかったから、完全なる暗闇の中で自分と向き合わないから、R670とT32のステッカー位置を間違えて配送担当に迷惑を掛ける羽目になったのだ、と。


   湯谷温泉のあの娘Ⅴ


 鏡の中の班目は自身にニッコリ微笑む。次第に目が徐々に赤く腫れていく。自分に笑いかけてくれる人がいるのだと胸が熱くなる。フローリングの床に複数の水の玉ができる。自分は本当におかしくなってしまったのだと、頭を振り子のように揺らしながらほほえんだ。
 再び笑おうとするが上手くいかず疲労のせいだと、ベッドマットに寝そべり布団を力強く抱きしめ、今煮え上がっている肝臓に蔓延する怠惰な毒素から解放されるような感覚を待ち、幾らか気力を取り戻すと、再び鏡の前に立って表情を作ること、数十秒。
 班目は鏡に吠えた。
「さっきのかわいこちゃんをよこせよ。誰だお前。誰だ誰だ、何度でも言ってやるよ。一瞬自分が自分じゃないように見えたあの感覚をもう一度。他人はいかれた隣人のようにどうにもできないが、自分自身ぐらい、俺の思い通りにならないなんて許さない。妥協しないし許さない。お前が俺であることを認めない。斑目喜吉、お前を絶対に許さない」
 班目は今思いついたことをしようとした。班目が今まで禁止していたことだった。意識の持ちようを鏡の前で試してみた。目頭に皺を寄せること三十パーセント、顔を溶かすこと七十パーセント。意識の持ちようを用いた自分の顔はこれが初見だった。
 鏡の中の班目はぐにゃりぐにゃりと顔を歪ませていた。三十二歳の男の顔に浮かべるだけの皺が浮かんでいた。皺と皺が恋人のように寄せ合っていて、顔中で無数のキスが起こっていた。
 鉄工所にいるときの自分なのだ。叱られたり、レジの前に立ったりしてきた顔なのだ。知ってしまった以上、これで表に出られなかった。ちょうど良い顔を見つけなければならなかった。時計は午後十一時四十八分を指していた。あと十二分。意識の持ちようを起動させながら、幾らか見た目が苦しくない顔を開発に取り組んだ。
 布団に入ると、自分が朝が来ることを怖がっていることが班目にはわかったので、少しばかり瞼の裏を見つめて気を落ち着けることにした。
 自分の身体が米粒ほどに見えるようになってようやく全長が視界に収まるような大きな穴ぼこが開いていた。穴の底が見えないほどの、落ちたものを無に帰す、巨大な闇の巣窟だ。そこにいろんなものを放り込んでいく。高校生時代に女子からもらった手紙。パラソニックの二十インチの液晶テレビ。三〇一号室の部屋の鍵。自家用車。高校時代から使っている登山用のリュックサック。「極東花嫁」、「彼と彼女のソネット」、「HEYミスターポリスマン」、「恋の呪文はスキトトキメキトキス」などの曲が入ったソニーウォークマン。質問ノート。班目に破かれてノートから切り離された罰線紙が、一枚、一枚と、迂回しながらも確実に穴ぼこの底へと落ちていく。
 班目は真っ赤な絨毯のひかれた旅館のロビーにいる。緑色のTシャツを着たあの娘を眼前に、あの偏屈な人間関係を色濃く映したキャンパスノート、何の被害も被っていないそれがめくれ、質問が書かれたページにたどり着くと、頭の中に静かに鎮座するのだった。
(あの男湯から見えるあの山のように巨大な一枚岩には名前が付けられているのですか、土曜日この時間帯一時間入浴して誰も来ないような客数なのですか、ここで働いてどれぐらいですか、何歳ですか、学生の方ですか、湯谷温泉周辺の人ですか、名古屋の方ですか、I県の名物鳥である仏法僧は台風で鳳来寺山からは去ってしまったって聞いたのですが本当ですか、あなたの名前はなんというのですか)
 班目は三枚近く書かれたどのページの文章の質問も口にしなかった。
「ストロベリーください」
 あの娘の身体が正面から横に向くと、自分の身体から血が引いていく。手足の神経がなくなる。自分がここにいることが恥ずかしい行為のような気がしてくる。銃で撃たれるような戦慄が走り、ロビーに立っていられなくなった班目は、地上玄関へとつながる階段を上がると、意識が畑巣団地の三〇一号室の布団の中に帰る。
 今日の弁当はキャベツとツナの和え物と焼き肉のたれが染み渡った豚肉だ。昨日作って置いたそれを、保温性の効いた弁当の容器に収める。汁がこぼれないように固く蓋をする。班目はシンクの端に片手を添えながら、目を固く閉ざす。
 どうにもならない相手になど質問など書くんじゃなかった。夢の出来事の衝撃を受け止めるため、密閉容器の蓋に手を掛けたままの姿勢でしばらく固まる。


   キボウ


 このピークさえ過ぎれば。班目の心中はいつもこの意識が存在した。土日休暇さえあればなんでもできる。一ヶ月すれば夏休みがもらえる。遠出もできる。いつもの班目喜吉でなく、新しい自分として知らない土地を歩くのだ。
 乗り越えてみせるぞ。
 がんばるぞ。
 自分には「意識の持ちよう」がある。
 誰も持っていない自分だけの武器がある。


   土日Ⅰ


 班目が退職する。週六の最終日。土曜日の夕方の出来事だ。
 休憩所に平井堅の曲が流れている。誰かのスマートフォンからのものだ。
 奥の六人テーブルには、昼休みの外出組であるベテラン串田と久保田が座っている。話の内容は、近所のごみ捨て場所。地区の人間でない何者かがゴミ袋を捨てに来ている。中を開けてみるとその男の一家のあらゆる雑誌が詰められているという。
 背後の棚のテレビは、インタビューが流れている。俳優が喋ると、女優がけらけら笑う。女優が喋ると、俳優から反応がない。女優になびく態度を見せない。だから俳優はうちの県の親善大使に選ばれる。
 なびく態度をとらないことで、俳優は世の中に認められる。自分は違う。この世に自分はいないという感覚で過ごしてきた。だから自分はこの鉄工所にいられている。認められている。意識の持ちようのおかげで暮らしている。
 机に座り、水筒の冷たいお茶を飲む。社長が引き戸を開けて休憩所に現れる。
 社長は普段は事務所で仕事をする。鉄工所に現れるのは稀だった。狭い鉄工所内を俊敏に動いて、素早く従業員の間をすべり抜けていく。小さな身体を。子供のように。
 班目はそうはいかない。作業中の従業員は独特の圧を放つ。気を張らねば近寄れない。意識の持ちようはその圧を撥ねのける効力がある。鉄工所内では意識の持ちようが不可欠だ。少なくとも自分には。
 社長が話しかけたのは、所長でも、指導員の紺野でもない。班目に用があった。
「今日午前中にどれぐらいできた」
「六束ちょいです」
「へえ」
 社長の鼻から上を見た。真っ赤なゴーグルを付けているかのように腫れている。他の皮膚より一つ層が盛り上がっている。クモ膜下出血の前兆だと社長が誰かに話しているのを聞いたことがある。ストレスと自律神経の乱れ。多忙の賜物だと笑うのだ。
「製造業はその数ができなければ、あなたはいらないですってなるよ」
「やります。できるようにします」
 班目は悩みだした。意識の持ちようと仕事の効率化をどう両立させるか。
「結構遅い分類に入るんだよ。なんでだと思う」
「今自分がしているレール打ちは、みなさんよりも最も仕事量の少なく、簡単で、労働の少ない」
「なのにどうしてへとへとになっているんだ。声が嗄れているときがあるじゃないか」
「自分は居づらいんです。慣れないんです。違和感があって、ズレている感じがするんです」
「そんなことはないって思いこませろ。自分に自信を持て。集中しろ。それで仕事はこなしていける」
 それらの意識の持ちようは、どこかでつじつまが合わないような、もやもやした違和感を抱くのだった。それを感じる原因を追及して、どうしたらそれがなくなるかを考えて、自信を持つという方向に持っていくことも十分可能なはずだった。なぜそれをしてこなかったのか、自分の甘さを責めだした。
「仕事をするうえでなにを気を付けてる?」
「人間関係です」
 さらっと答えた。
「それ以外では」
「不良品を出さないようにとか」
 うーん。社長は黙ってしまう。
「みんなお前の態度が良くないって言っている」
「そんな」
「自分のことに夢中になりすぎてないか」
「気をつけます」
「この仕事が向いていないんじゃないか」
「あの、それなら退職で良いです」
「そうか。ここからは再就職に向けてがんばるんだな。こんなことずっと前の職場でもやって、新聞社も一年経たずに辞める。この鉄工所も二年足らず。同じこと繰り返して、三十一歳」
「頭の回路が人よりないんだと思います」
 近くの従業員の声が大きくなっていた。笑い声に無理を感じて、隣の面倒くさい会話で、自分たちの世界を邪魔されたくないと思い始めたのではないかと、班目は勘ぐった。たまに所長の声がかき消されて聞こえづらかった。眉間にしわが寄って目つきが悪くならないように気を付けた。
 パートの人たちが自分のことを気にするのもおかしかった。班目は誰ともコミュニケーションをとっていないから。義理がないのだ。もしかしたら、話したことはほとんどないが、自分のことを気に入ってくれているんじゃないか、存在を消してさほど邪魔にならない良い子だと思ってくれているんじゃないかという甘い考えがどこかにあったのだろうと班目は思った。やっぱりかと心の中で呟いたものの、人にこうされることにショックを受けていた。
 そういう状況でも、静かだった。頭が切り離されて、肉体だけがそこに在るような気がした。頭の中で音を鳴らしたくて仕方がなかった。
「お前、前に俺に言ったな。仕事ができるようにするから、私生活のことに口を挟まないでほしいって。もっと外に出たほうがいいとか、人と話したほうがいいとか、女の子と遊んだほうがいいとか。仕事と私生活は関係ない、そのことでいろいろ言われると、いろいろ考えてしまって作業に集中できなくなるって。自分は仕事をしにきてるって言ったよな」
「はい」
「仕事できてないじゃんか。人に指図するなら、仕事できなければだめだろ。自分の態度改めろよ」
 休憩時間残り五分を切ったようで、パートが席を立ちだした。外に出ていた従業員も戻ってきた。休憩所にいるのは社長と班目だけになった。
「お前さあ、仕事を何だと思ってんだ。こんな簡単なこともできないでどうするんだよ。大事にしてることは人間関係だって言ったけどさあ、お前、誰とも喋ろうとしないじゃないか。気配を消そう消そうとしてるだけじゃないか。言ってることとやってることがめちゃくちゃだよ。お前の何を信じたらいいんだ。お前を見ているとイライラする」
「すいません」
 三十二歳になりたての男の声が震える。鼻水が出て、垂らしたままでいる。作業着の上にドーム状の粘膜が付く。机の中央にはティッシュの箱が置かれている。社長はそれを差し出さない。班目もそれを自分が使って良いものに見えない。
「じゃあ仕事って何だと思う」
「仕事っていうのは、人間性をぐちゃぐちゃにされること。地獄を見ること」
「馬鹿。レールにキャップをつける。それがお前の仕事だよ」
「いやあの、気を引き締めるために唱えているんです。知らない人と一緒の空間にいて、上の人に叱られたりするわけで。精神的に持たせるために、そういう意味で言ったんです」
「いつ叱られたりひどい目に遭っても、仕事はこんなものだと、その『意識の持ちよう』で割り切れるということか。じゃあ今はどうだ。俺にとやかく言われて落ち込んでないっていうのか。何を言われても平気なのか」
「平気じゃないです」
「じゃあ意味ないじゃんかよ」
「はい」
「仕事を早くやることに意識を向けろよ。そのほうが怒られずに済むじゃんかよ」
「はい」
 午後五時十五分。工場内に勤務終了のチャイムが鳴るが、六時まで仕事は続く。社長が事務所へと帰る。
 奥にあるロッカーへと急ぐ。リュックサックからポケットティッシュを出す。鼻をかむ。鉄工所内へと足を進める。
「辞めるんだから、俺の話なんて関係ないか」
「いえ、社長と話せてよかったです。自分を改めたいです」
 所長も他の従業員はすでに仕事場に立つ。班目も急いで作業台の前で手袋をはめる。同じような何気ない顔をする。遠い目でキャップを設置し、スタンドを発射させる。
「ところで社長。前より僕、喋るようになったと気づきませんか。ろくに言葉が出なかった以前と比べて。社長と互角にやりあえるまではいきませんけど。今日はろれつが回っていたと思いませんか。『意識の持ちよう』ですよ」
 心の中でつぶやく。周りの従業員が顔を上げて班目を見る。作業を一旦止める者までいる。彼等はなぜ自分を見ているのだろう。キャップを付けているだけなのに。今、口に出したか?気のせいだ。心の中で言ったのだから。従業員たちの目は不審の色を放つ。そんなはずはない。確かに心の中で言ったのだ。口にしたか?わからない。自分の感覚すら信じられなくなったのか?
 退勤時。所長に精一杯のあいさつする。そっけない。帰りの社長の一言。
「でも二十五日までは居てくれ」
 あと三週間と二日。頭の中で計算する。


   土日Ⅱ


 実質意識の持ちようはどれも使えなくなった。作業が遅くなっているのは、この意識の持ちようが原因なのかもしれなかった。世の中的にやっていけるという作業の効率のよさそうなものを班目は自分の中に組み込もうとしていた。
「また新しい習慣を探さなきゃな」
 公園に入って、自転車を停めた。三角の屋根がついているベンチへと腰掛けた。班目は先月の給料明細の入った銀行の袋と鉛筆を取り出した。思いついたことを袋の余白に書き留めていった。
 自信をつければ、違和感と戦うこともなく、人とのずれも感じなくなるのではと思う。八束のペースを作るには、その感覚を馴染ませる必要がある。
 顔を上げる。辺りは日が暮れている。頭がクリア。何も入っていない状態だ。
 意識の持ちよう「老人化」を発動させる。目頭に一本、二本と皺なる切り込みを入れる。髪にハリがなくなり、白くなるイメージを憑依させる。次は硫酸で顔を溶かす。性格も年齢も分からないくらいに、雨上がりの土砂のような顔をさせる。はっはっはっはと興奮した犬のように呼吸を荒らげる※、「意識の持ちよう」を自分の中に入れ込もうとする。うまくいかない。頭がクリアのままでいる。
 「意識の持ちよう」が発動しない。
 自転車に乗って、公園を出た。頭がクリアなのは、ハイとも呼べる清々しい気分だ。車道中央線に沿って走っても平気な気がする。突然自転車のハンドルを切りたくなる衝動に駆られる。夜だというのに、昼間のような明るさを感じる。身体も軽やかだ。少し前方に自転車に乗った青年がいるというのに、大声で笑いそうになる。
 信号が赤になり、青年の少し後ろに止まるようにブレーキをかけたときに、どうしてブレーキをかけないといけないのだろうといらいらし始めた。青年が止まったから何となく自転車を停止させた。
 班目は自転車から降りた。ストッパーをかけて立てかけた。レンガで区切られた花壇に歩み寄った。班目はレンガを一つ手に持った。自分がレンガを手に持ちはじめた。その重さを全く感じなかった。子供をあやす感じで、一度、二度、宙に投げた。
 これを青年の頭にぶつけてみたらどうなるのだろうと思い始めた。思い始めると、本当に答えが分かなくなって、実行してみたくなった。
 そのままレンガを持ったまま動かずにいると、眼前には赤信号で待たされたうっぷんがたまった車らが急発進して、班目はその勢いに押されて倒れ込んだ。再びレンガを持って、何もせずに立っている。
 兄ちゃんなにやってんの、とジョギング中の中年男性に声をかけられる。男は肩にかけたオレンジのごわごわした肌触りの悪そうなタオルでおでこをぬぐう。
「魅力のない自分を見るのも、人前に出すのも、もう耐えられないし、どう振る舞ったら、その場にいていい人間になれるのかと俺は悩むんだ。自分から嫌な気配を出して、周りの気分を害していることが考えすぎかもしれないが、隣の人が定時に帰って、その場から立ち去ると、少し部屋が広くなって、居心地が良く感じると、人の存在感ってことごとく邪魔だなって思うんだよ。鉄工所から一人一人といなくなるごとに空気がいくらか軽くなり、どす黒い気配は被害妄想ではなく確実に存在しているし、暗い人間、挙動不審な人間は他の人たちの不安を掻き立て、すぐにいなくならなければいけないのだという意識が今でもあるし、どうしたって胸を張って生きることなんてお前何様だって思うし、それが三十二年間生きてきた班目喜吉の意識にぶっとい根を張っているんだよ」
「なんだって」
 中年男性から先に口を開いた。
「こんな格好をしてるが警察の人間なんだよ。あんた交番まで来てくれんかね。今の時間なら、あの交番に誰かいるだろうし。捕まえようってわけじゃない。俺はあんたに何の偏見も持ってないよ。ただ話を聞くだけ。遠くであんたのこと見てたけど、五分ぐらいそこにレンガを持ったまま動かないでいるんだよ。逮捕なんてしないから安心しな。兄ちゃん、ちょっと追い詰めたような顔をしてるよ」
 休暇中の中年の警察官は班目の頭の中にいる。
 班目はレンガを元の場所に置く。暗闇に包まれた自転車の元へと戻る。手が砂でざらつく。信号で止まっていた青年はすでにいない。遥か道の先にも見当たらない。
 この感覚は普通じゃない、しっかりするんだと自制する声が聞こえる。
 しっかりするんだ、元の、元のまともな自分に戻るんだと付け加えて、ひいひい笑う。脳髄のどこかから警告の汽笛のようなものが鳴る。
 心臓の波打つ鼓動が鼓膜の裏あたりから聞こえるようになった。そのエイトビートのリズムに合わせて、もうおしまいだ、もうおしまいだと、遊び感覚で言葉を付け加える。言うのを止めた後に心臓の鼓動がすると、その音が「もうおしまいだ」に聞こえる。
 自転車を停めて耳をふさいでみる。外の音は遮断できても、身体の中の音からは逃れられない。心臓がぼやく。「もうおしまいだ」と繰り返す。
 心臓を自分の身体から外してどこかに放り投げたくなる。しかし心臓がなければ血液が体中に巡らない。肉の鮮度が落ちる。活動できない。それでは生とは地獄ではないか。


   土日Ⅲ


 青谷湿原は街が誇るハイキングコースだ。班目がこの町に来たとき、一度だけ歩いたことがあった。駐車場に一台白い旧車が置かれていた。班目は自転車を誰にも見つからない場所に停めた。他の人もこの駐車場に来たときに、自分がそうしたように安心してほしいという、班目なりの配慮だった。
 月明かりが雲隠れしていても、遠くにある極小単位のかすかな街灯の明かりが差し込むだけで、そこは純粋な闇ではなくなるのだと、うっすら凹凸が見える遊歩道の景色を見て思った。池は柵で囲われていた。もう柵に囲まれた池にも顔をつけて泳げる気はさすがにしなくなっていた。
 班目はそれが嬉しかった。恐怖を恐怖と感じることが嬉しかった。もう一度、「老人化」を発動して、細い目をぱちぱち瞬かせてみたが、うまくできている自信がなかった。森の中では意識の持ちようなど必要なかった。そのままで外にいられるのはへんな気持ちだった。みんながこうだったら狂気めいていると思った。
 広がりに出た。ベンチやトイレ、看板、フェンスを自分の中で認識できるようにしっかりと見た。そこを通り過ぎる。左足でツタを踏みつけて固定し、右足で蹴り上げた。千切ることができなかったので、もう一度そうした。プチリと切れて、地面に残骸が横たわった。きちがいじみてると思った。
 湿原から山道に入った。先まで伸びる砂利の平坦な一本道を除けば、幹の太い木だらけだった。白い影を感じて右手方向を見ると、ロープで紙が吊されている。紙はてかてかして、防水用のシートの中に入れられているのが分かる。なにが書いてあるのかは見ないようにした。以前来た時に、なにかよくないことを書いてあってぞっとした記憶があった。
 カエルの鳴き声と不気味な鳥の鳴き声が鳴ったが、山の中は静かだった。班目は静かでも平気だった。今まで感じていた違和感はなくなっていた。違和感とは、セーフティーネットであり、それがないということは大きな失態を犯す前兆だった。班目の中では。
 広がりに出た。ベンチや山の構造のイラストが貼られた看板があった。この先にはいけないと思った。月明かりがなくなったわけでも、町の明るさが消えたからでもなかった。山が深くなっていた。二方向きに別れていて、奥をじっと見た。じっと見ずにはいられなかった。闇がこちらを見返している。足が動かなくなった。同じ闇なのにどうしてあの場所だけは深いのだろうと班目は思った。帰ることにするのだが、なにかが来るような音がする足音がして立ちすくんだ。
 どうしていいかわからずそのままでいると図太い中年男性の声がした。
「こんにちは」
 来た道から聞こえる。足音がこちらに近づいてくる。班目はハイではなくなっていた。
「おかしいなあ。確かに声がしたはずなんだけどなあ」
 落ち着け、と自分に言った。班目は足音を立てないようにして、来た道を戻った。まだ男は林道に入ったぐらいのところにいるのだろうと推測した。
 広がりのどこかに隠れるよりは大きく広がっている林道のどこか一か所に隠れた方が逃げることもできそうだった。広がりから少し離れた道端の林の左手に潜りこみ、一本道から二十歩ほど離れたところで腰を落とした。身体を小さくするだけでは草むらに隠れることができず、横になることにした。地面に寝転がった。
「こんな時間に一体なにをしているんだろう。おおい、こんにちは」
 足音はまだ班目の地点まで及んでいなかった。そのはずなのに、頭の中では、地面に寝そべっている自分を男が一本道から見ているイメージが浮かんだ。
「こんにちは。返事を下さい。危ないですよ。一緒に引き返しましょう」
 足音が聞こえなくなっていた。班目は耳を澄ませた。親が完全に寝静まったのを待つ子供のように。どこまでも林が続く道の中で、完全に草むらに身を隠している自分を見つけられるはずがない。
「おい、どこに隠れてんだよ。出て来いよ。挨拶してるんだぞ。無視してんじゃねえぞ。おらあ」
 班目はがさごそと草や土を蹴り上げて、縮み込みながら顔を上げると、そこには男の顔はなかった。耳を澄ませると足音は向こうへ行っていた。林道から一本道に出た。
「こんにちはー。こんにちはー」
「この時間ならこんばんはだよ。馬鹿野郎」
 そう言い放つと、走って林道を離れる。板橋を通り、トイレの設置されている広がりに出て、駐車場まで駆け下る。自転車は隠されたままそこに在り、班目は乗って、I湿原を後にする。


   土日Ⅳ


「今日の意識の持ちようは」
 もういいよ。いもの煮転がし。テレビを消す。
 職業安定所、もしくは軍隊にでも入って、姿勢や目線、気の張り方を正してもらうべきだと思った。自分の勝手な思い込みでなく、わけのわからない(講師)の言うことではなく、老人化や硫酸で顔を溶かしたりして現実から感覚を遠ざけようとせず、ハキハキした人間にしてもらうのだ。
 班目は質問ノートを取り出して、それを開いた。質問を書いた。
 小さいころの湯谷温泉はどんな感じでしたか。駅はいつごろ開通したのですか。ゆーゆーありいなという健康ランドができたとき、湯谷温泉の旅館との確執はありましたか。
 あの娘の設定が湯谷温泉の生まれ育ちになった。小さな頃から不動滝への山道などを歩き、旅館全体の盛者必衰を眺めて成長した。S市への学校は湯谷温泉駅を経路して通学し、アルバイトとして友人を雇ったりして、接客のマナーなどを教えて、教育係としての素質も培ったかわれた、現在二十五、六歳。
 現物のあの娘がどんな人生を歩んだのか。一切含まれていない。シコシコと記入してきた班目の妄想の塊だ。
「以前私が言った質問ノートは書いただろうか」
 声に班目の目がぱっと見開く。テレビを消したはずだぞ。班目はテレビに映る(講師)を凝視する。分厚い唇を前に突きだす。
「質問は十個出せば十分だ。それ以上書くことも難しいだろう。いっぱい書いて、そこから優れた質問を生むような手法を使う奴もいるだろうから、十個以上なら数は自由だ。その中から三つに絞るんだ。自分から話しかけるときの、相手との会話のきっかけとなる質問だ。その三つはタイプの違うものにしてくれ。いろんな状況がある。相手の調子が悪いときもあるし、周りがうるさいときもある。どんなときでも対応できそうな、手堅いものを選んでくれ。会話がはずめば、三つ以外の質問でもはまるときがある。これで会話を続けることができるはずだ。ただし、沈黙は悪いことではないし、質問ノートは相手との距離を縮めるものではないことを知っておいてほしい。きっと相手は、いろいろ聞いてきてうっとうしく感じることもあるだろうから」
 質問の数を数える。百八十三個ある。その中から使えそうな質問を、それぞれ違うタイプのものを選び、自分が聞きたいことを優先した順番をつける。赤まるを打つ。
 それが終わると、班目は一ページ目に書いた社長への質問に目が入ってしまった。
 社長が三十一歳の時はどんな感じでしたか。釣りの魅力は何ですか。魚を釣れるのを待っているとき、どんなことを考えていたりするんですか。どうやって奥さんを射止めたんですか。何を大事に、軸に生きていれば仕事ができるようになれるんですか。仕事の速い人と遅い人の違いはなんですか。どんな正社員が今後来てほしいと思いますか。社長が出来が良いと認める人は、従業員の中の誰ですか。昭和の時代で一番笑った芸人は誰ですか。今の若手の芸人で好きな人は誰ですか。ピーク時を超すために、どんな工夫をしていますか(自分の工夫も言えるようにしておく)。若いときと今と仕事ができる効率はどちらが上ですか(黒く線で潰されている。そんなわかりきった質問するなと言われる可能性があるため)。
 社長への質問が書かれたページを切り取ろうとする。が、やめる。質問にも社長にも罪はない。悪いのは自分だ。鬱憤晴らしみたいで切り取るのは控える。三十二年間そうして生きてきた。 そういう意識だから駄目なのだと自分の戒めのためにページを破く。びりびりに破いてキッチンに持って行く。ボールに水を溜める。ゴミを中に浸す。どうしていいかわからず放置する。
 しかし新しい自分になった気がする。
 質問ノートのページを開く。湯谷温泉のあの娘への聞きたいことが埋め尽くされている。
 質問こそが人間関係を生む。優れた質問が「起爆剤」になる。一ヶ月前はそう信じていた。(講師)に提案される前から新聞記者時代よりも前から気がついていた。
 質問を使わなければ意味がないことに気がつく。自分には百八十三個の質問という名の「起爆剤」がある。この爆弾を起爆させるのは今しかない。日曜日が過ぎれば週六の勤務が再び始まる。固めた決意が鈍る。
 愛用の睡眠薬を飲む。部屋の明かりを消す。布団の中で丸まる。「もうおわりだ」。心臓の音がこだまする。
 テレビの電気が自動的について、スポットライトを浴びた(講師)が映し出される。
「この前言っていた、質問ノート。私が持ってきましたんで、みなさんに見てもらいます」
 (講師)が教壇から離れて、右側の通路へ。階段へと設置されているカメラに近づいていく。
 カメラのズームが下がり、教壇が小さくなる。周りの講義室の様子がわかる。照明が付けられているのはステージだけだ。
 カメラが幾ら引いても、生徒はどこにもいない。講義など行われていない。教室には誰もいない。
 (講師)が画面いっぱいに入り込むと、質問ノートを開いてカメラに見せる。
「これが、オードリー・ヘップバーンへの質問で、これが俺のきんたまへの質問、次にこれが今後甥の命を奪うであろう何者かが持つ何らかの凶器への質問」
 ページには何も書かれていない。
 髪をくしゃくしゃにした班目が力なく布団から起き上がる。
「寝かせろよ、バカ」
 液晶テレビの人工の光に目をやられる。リモコンで赤いボタンを押す。白紙のノートを持ちながら酔った大学生のようににたにたしている(講師)が部屋から消える。


   土日Ⅴ


 班目がこの地に来たのは、自信という意識の持ちようを身に着けるためだった。自信でなくとも、今習得している意識の持ちようの代わりとなるものなら何でもよかった。
 空は快晴だった。探査機のように鷲が絶壁付近を旋回し、針でつついた程度の大きさの飛行機が空を横切っていた。あの日のように露天風呂を占拠できればと、早めに家を出たかったのだが、部屋でそわそわしたまま時間が過ぎていった。以前より少し遅めの午前十一時半に湯谷温泉の駐車場に車を停めた。
 飯田線の小さな踏切を渡ると、宿の看板が道に沿って並んでいた。その中の一番手前のあの崖の旅館には、前にはなかった看板が立てられていた。白い背景に黒い文字で「とれたて鮎づくし定食。二千百円」。鮎は山岳地帯の市村の名物だった。温泉から出た後、これを食べようと思った。三十二歳の誕生日の記念して。
 班目は一度崖の旅館の入り口を盗み見て、そのまま通り過ぎた。民家があった。道端には二台車が端に寄られていて、駐車場で大人たちが喋っている横を、子供が五人で追いかけっこをしていた。がたいのいい男や奥さんらしき女性が数名固まっていた。班目は下を向いて歩いた。
 湯谷温泉に来るのは三度目だったが、前回はこの地区まで来なかった。とある旅館の隣を通り過ぎると、建物に入った時に、スタンプラリーをやってますけど、どうですかと声をかけられたのを思い出した。写真撮影も快く引き受けてくれた。親切にしてくれたのに良い記事が書けなくてすみません。班目は腕で目を拭った。
 湯谷温泉街道の端っこまで行くと、来た道を戻った。民家の前には車がなく、夫婦も子供もいなかった。早めに羽化した蝉の鳴き声がする中、再び人の気配のない道路を歩きながら、再び崖の旅館に戻ってきた。一台の車が旅館の隣の駐車場に入った。運転席にいる人物を確認すると、一人風呂は叶わないことを悟り、湯谷温泉から出ていくことにした。
 坂の上に旅館があるのを見つけた。その旅館が予約制なのかわからなかった。旅館の前まで行ってみることにした。坂を上っていくと、看板が立てられていることがわかった。温泉のイラストに「都忘れの湯」という赤い丸っこい文字が描かれていた。
 入り口はドアが開けられており、広い玄関から旅館内が見渡せるようになっていた。班目は内観を様子を見る。玄関には旅館のスリッパが扇状に並べられていた。床には赤いじゅうたんが敷かれ、ロビーには同じ色の椅子が並べられていた。その左にはテレビが置かれていた。二年前に来た時と変わらないラウンジだった。当時はどうやってすんなりと入っていけたのだろうか、記憶になかった。
 カウンターには黒いスタッフTシャツを着た、肌が褐色の若い女性店員が立っていて、一度だけ班目の方に顔が向いた。坂道は歩道から外れた場所にあって、温泉街にいくには、この坂を利用する必要がなかった。女性店員の背筋が張るのを班目は見た。店員はあの娘だった。


   土日Ⅵ


 班目は旅館に入り、玄関で靴を脱いだ。靴箱がなかった。玄関に置かれた靴は班目のものだけだった。こめかみや口角を細かく震わせながら、カウンターに近づいていった。
「すいません。入浴できますか」
「千円です」
 班目は黄色い財布を出して、お金を支払った。
「入浴の場所は分かりますか」
「イエ」新聞記者時代に暖簾がかかっている部屋を見たことがあるので、知っていた。
「ご案内しますね」
 店員がカウンターから出て、先頭を歩いた。班目は彼女についていった。一度振り返り、客が自分についてきていることを確認すると、そのまま正面を向いて、階段を上がった。
 班目が口を開いた。
「あの、以前あなたに接客してもらいました。二か月前のことです。そこががけっぷちに建っている旅館でした。こちらでも働いているんですか」
 反応なし。おかしなタイミングで声をかけたのだろうか。かっと班目の体が熱くなって、夏の日にぬれたシャツがさらに水分を吸って重たくなる。
 代わりに班目の中で店員の声がする。
 湯谷温泉のどこの旅館にも設置されていますよ。私はアンドロイドなんですよ。この寂れた温泉街に人を呼ぶために、どんな客でも一目ぼれするような、相手の好みに合った容姿に変態化するように、私は製造されたんですよ。接客だって、あなたのような性犯罪者のような顔をした、人間の女であるならば近寄りたくもないような男にも、恋人のように愛想よく対応できるようにプログラミングされているんですよ。私はアンドロイド。客が来ないことで支配人に伝票で殴られてもお前みたいに退職せずに居られる。電子仕掛けの安息の娼婦ですよ。
 班目は店員の少し肩幅が広い背中を眺めていた。小柄な班目と同じぐらい、もしくはそれ以上ぐらいの。男湯は階段を上がって右手のすぐの場所だった。返事がもらえないことにあきらめつつあった。 
 男湯の戸を開けて、店員が入っていくと、パチパチと電気のスイッチを入れて部屋が明るくなった。
 床と壁の間の溝を見つめている班目の元に店員が戻ってきた。
「急きょ助っ人に来たんですよ。ここの人たちが用事で、各旅館から余った従業員が駆り出されて、二日間だけ仕事を任されているんですよ。旅館同士助け合って湯谷温泉は成り立っているんですよ。こちらが男湯になります。今お客さんがいないんでゆっくり入っても大丈夫ですよ」
 班目は店員の顔を見た。今度こそあの娘が石川秀美にそっくりだと思い切ることができた。「傷だらけのローラ」の妹と呼ぶにふさわしいくらい、店員の肌が焼けているのだ。

 


   土日Ⅵ


 中に入ると、正面に風呂場へと続くガラス戸があった。三段ごとにかごが置かれていた。ドライヤーも鏡も設置されていた。あの娘の言う通り、どのかごにも服は入っておらず、からっぽだった。一番隅の段に服を脱いでいった。最後にボクサーパンツを畳んだ黒いシャツの上に放り投げると、風呂場へと繰り出した。
 班目は両手を広げて、深い溜め息を吐きながら、天窓に聳える青空へと飛び立つように、背骨を反ると、二、三本関節が鳴った。明かりも、湯も、壁際に連なるシャワーも、奥の露天風呂も天窓も、そこから見える青空も、電線柱も、独り占めしているような、そんなささやかな気持ちになった。
 桃色の桶を持って、湯に沈めて水をためると、自分の身体にぶっかけた。頭も流して、透明色の湯船につかった。班目が入ることで水かさが増えて、大波となってタイルの上に流れていった。
 熱い湯に浸かることで全身の筋肉が揉まれていくような解放感を味わった。頭や後頭部、その中に収まっている脳みそのこりが徐々に自分の中から消えていった。そのまま意識はあの赤いじゅうたんが敷かれたラウンジへと精神がトリップした。
「すいません」
 お風呂上りで湯気が立ち込める班目が火照った顔をして、カウンターにいるあの娘に近づいた。あの娘は暇そうに身体を揺らすのをやめた。
「やっぱり湯谷温泉のことってけっこう勉強されてたりするんですか」
 用意してきたとびっきりの質問その一を口にした。
「はい。ここが地元ではないんで、N県から来ているんです」
「N県。それは遠いところだ。いやあ立派だなあ。ゆくゆくは総理大臣かな」
「乗り継ぎがないんで、一時間ほど電車に揺られているだけです。他の旅館の方とかおかみさんと話をして、いろいろこの土地のことを知りました」
「ああそれで。勉強熱心なんですね」
「ふふ。もしよろしければ、ガイドしましょうか。もっとこの地の良さを知ってもらいたいんです。実はいまキャンペーンを企画しているんですよ。企画会議に立ち会ってみてはどうですか。新聞記者の方ですよね」
「エッ。どうして知っているんですか」
「あのとき私もいたんですよ。ツアーの団体の中に。うふふ」
「ああ、そうですか。ノルマがあって、一か月でまだ二つほどしか記事を見つけることができていないんですよ。上の人に相談したんですけど、がんばれというだけで。身体を休めるために来たのに、いいもの見つけられてラッキーだなあ。良い記事を書くので、宜しくお願いします」
 店員から聞いた日時をメモにしたためた。これで今月は何とかなりそうだと、気が楽になるのだった。班目はリュックサックから名刺を出して、店員に渡した。K市黒野新聞社。電話番号とメールアドレス。班目喜吉の下にはローマ字が打たれていた。
「当時の記事を読みましたよ」名刺を持った店員の右手がカウンターに隠れて見えなくなった。
「いやあお恥ずかしい。あれは自分の中ではうまくいかなかったという気持ちがあるんですよ」
「うふふふ」
「いかがでしたか。店員さんの感想を聞かせてください」
「うふふふふふ」
「書けていたか感想を聞かせてください」
「うふふふふふふふ」
 浴槽に張った水面は弾力のある波に揺られていた。元新聞記者で鉄工所勤務の班目喜吉に戻っていた。
 波に揺られて日光を全方向に反射して輝く水面を眺めながら、今頭に浮かんでいたことを鮮明にしようとした。うっすらと机の引き出しの中のものが浮かんでいたのだった。クリップ、電球、使えなくなった携帯電話の充電器、ホッチキス、処分を命じられたもののそのまま入れられた新聞記者時代の名刺、鼻毛カッター、喉スプレー。机も引き出しも関係がなく、あの中身のどれかが出てきたような気がした。
 記憶の糸の先端は千切れていて、手の届かないくらい深い闇の中へと沈んでいて、思い出すことは不可能だった。
 班目は湯から出た。自分の団地の風呂のように、床に腰掛けようかと迷ったが、黒ずみも水垢も付いていない、清潔なスケルトンブルーの風呂椅子が用意されているので、そこに座ることにした。
 班目はシャンプーを泡立てて、濡れた髪につけた。髪に浸透させた後、前髪も横も後ろに持っていき、手で押さえてぺちゃんこにした。班目の分厚くて長い剛毛を後ろに束ねた。髪が水分を吸って、頭がきれいな湾曲に収まっていた。おでこについた泡を指で払った。鏡の上にある橙色の電球によって顔の彫りが際立った。家で見る自分と比べてみれば、幾分ましな顔つきに見えた。
 風呂場から出た。時計を見た。一時間が過ぎていた。タオルを絞って、身体を拭いた。家から持ってきた茶色のボクサーパンツを穿き、服を着た。鏡を見た。


   土日Ⅶ


 自信、自信と鏡の自分に向かって唱えた。自信という言葉の響きに神経を研ぎ澄ませてその波長を察知し、その波に身を任せた。鏡の中の自分の目つきが強くなった気がした。気分も高まりつつあった。許容範囲が拡張され、どっしり根が張ったような意志の強い男に生まれかわっていた。
 自信を持ち、胸を張り、大名のごとく股を大きく開いて股間を晒し、背骨をぴんと立たせている鏡の中の自分はどことなくうさんくさく、一生懸命虚勢を張っているように見えて、これは違うと思った。少し他の意識の持ちようを混ぜることにした。
 はっはっはっは。犬のように呼吸を荒らげる※興奮させた。自分の身体に自信と老人化を両立させようとした。眉間の皺が寄った。目を力強くつむったり、開けたりした。ときたま吐き気すら感じるのだが、しらふで人前にでていくよりましだった。
 目の前の鏡を見ると、薄い存在感ながら、油断ならない男がそこにいた。いつ背後から切りかかられても、気配を察知し、タイルの床に転んで暗殺をまぬがれる、そんな男だった。
 自信が八、老人化が二の割合。自分が居心地が少しはよくなり、頭の血の巡りも悪くはなかった。
 新たな武装が出来上がると、あの娘に話しかけようと思った。微調節したかった。確固たるなるものに仕上げて、明日の鉄工所で八束という目標達成するために、あの娘に話しかけようと思った。
 あの娘に投げかける質問を頭の中に浮かべた。やるしかなかった。いつまでも弱者の椅子に座っているわけにはいかなかった。準備が整うと男湯から出ようとした。
 がたん。
 目が用心深く、きょろきょろと左右に走った。脱衣所で待機した。何気ない日常生活の音のはずなのに、動くことができなかった。バリアがはってあるかのように、危険を察知した小動物のように、箒が絨毯をこすれる音が班目には怖くてたまらないのだった。
 まだ廊下で音がしていた。がたんがたん。観葉植物の葉っぱがこすれる音。バケツを置く音。掃除夫か、仲居か、あの娘か。誰かが近くの廊下を箒で掃いていた。
 怖いと思うのは、きっとこれが正しい意識ではないからだと班目は思った。鉄工所でも自信ということをほのめかされて、胸を張ってみたものの、どうにも違和感があって、何度もその意識の持ちようを止めていたのだった。
 班目はいつも胸を張ると、椅子取りゲームを連想させられた。一つしかない椅子を奪い合い、勝者が生まれ、敗者も出てくる。今自分が外に出られないのは、清掃員の方が強いエネルギーを放っていて、それに跳ね返されているからだと班目は推測した。
 身体の根本からイデオロギーを滾らせて、あの椅子を自分から奪い取らなければいけない。外にいる清掃員が相当強いエネルギーを持ちながら旅館内を巡回していると思うと出られなかった。
 がたんがたん。
 脱衣所の鏡に映った自分の顔を見ていた。ぐったりしていると、箒の音が消えていた。
 班目は戸を開けた。廊下には人がいなかった。
 今この旅館の中で聞こえる音と言えば、蝉の鳴き声と、小さくテレビが流れているぐらいだった。箒の掃く音もなくなっていた。
 ラウンジへ降りる階段に近づいて、そこから覗くカウンターを見た。誰も立っていなかった。玄関の正面に無数のスリッパが並んでいた。班目の靴のつま先が外に向いて綺麗にそろえられていた。カウンターの机には金色のベルがきらきら光っていた。
 この調子では人と会話するのは無理だと判断した。退散することにした。班目は階段を使って一階に下りていった。足音も立てずに、そのまま玄関に置かれた靴(つま先が外に向いていて揃えられている)を回収しようと歩いていった。うまくいった。そこまでたどり着くと、後ろから小さな足音が聞こえた。人の気配が何もないはずの空間から沸き出てきた。
 角がまん丸くて赤いふかふかしたソファーに座っていた人間がいたのだ。その足音は静かに班目に近づいてきた。このまま旅館を出ようと思った。気が付かないふりをした。両足につま先から靴を突っ込んで、踵が入りきらなくとも構わずに、かぽんかぽんと靴を鳴らしながら、光射す夏の空へと進もうとした。
「お客さん」
 班目は足を止めた途端に自分が十二、三の男の子にでもなった気がした。背骨から頭へと熱気が駆け抜けていき、身体が火照ってきた。訂正したとはいえ、一瞬でも実験台などという扱いをした声のする方角へと静かに身体を振り向いた。


   土日Ⅷ


 店員は小皿とつるつるした黒い箸を持っていた。
「よかったら柴漬けを食べていってください。ここで漬けたものなんですけど」
 頭の中で上手く変換できないまま班目が小さく頷くと、店員が足を進めて、二人の距離が縮まっていった。なんの意識も装備せずにしらふでここまで歩いてきた自分の無防備さを叱咤した。
 店員から箸を渡された。微かに店員の手が触れて、班目の瞬きが少し早くなった。店員の右手の人差し指第二間接に触れた。空気のように外へ飛んでいきそうな足をなんとか落ち着かせて、踏みとどまろうとした。今のところ店員は班目に白い目を向けてはいなかった。
 店員の手にしているお皿の柴漬け一つを箸で摘んで口に含む、箸を店員に返す。これだけのはずなのに。箸の先を柴漬けに合わせようとした。自分の手が震えていた。それに気がついたのか店員が一度視線を下に向けると、班目は感情が混みあがってきて、泣いてしまいそうになった。気を強く持つようにして、一番端の小さな一切れを挟んで、渇いた口の中に入れていった。
 黒Tシャツから膨らみを作っている店員の胸あたりに視線をとどめていることにも気が付いていなかった。口の中で柴漬けを噛んでいて、どこで今浮かんでいる感想を言ったらいいのかわからなくなっていた。湿りきった班目の見開いた目は、店員の女たる徴から釣り目へと移っていった。
「おいしいです。これ売り物なんですか。二パックください」
「売れなくて困ってたんです」
「全部ください」
 そんなつもりで言ったんじゃないんです、軽口を叩いたことを店員に後悔させてしまったと感じて、班目は自分のまっ平らな腹に顔をくっつけるようにして背中を丸めた。
 最近三十二歳になったその記念に、とか、友達のパリ旅行のお土産のお返しをしたい、とかいう内容のことを声を震わせながら口にした。伝わったのかは怪しかったが、ここでお待ちくださいと縮み上がっている班目に告げて店員は離れていった。
 班目は今のうちに呼吸を整えた。抜け殻となった自分に強い意志を持ってもらうために言い聞かせた。とりとめのない自信なんて持たなくてもいいから、勇気を出して。五月十五日のあの日の二の舞にならないように。しかし班目の耳には聞こえていなかった。
 店員は棚に置かれた柴漬けをカウンターに回っていった。お土産コーナーに置かれた、抹茶ロールケーキ、電子レンジで温められるインスタント五平餅、ブルーベリーのパウンドケーキなどパッケージや今風のデザインが加工された箱が、パックに入って値札シールが張られただけの柴漬けにごぼう抜きされて、恨めしそうにしているように見えた。
 店員がレジを打っている間、班目はその空になった横のわさび漬けの山を見ていた。そのパックの緑色のぶつぶつ一つ一つから、俺は実力で売れてやるぜ、卑怯な手を使わずに、かわいい女の子に抱かれて売られるなんて実力でも何でもないという、憎悪すれすれの声がするのだった。
 自分が不条理に加担したようで嫌な気分になった。俺はあんた側の人間だよ、と言いたくなった。わさび漬けも全部買いたかったが、そういうことではないことがわかっていたので、班目は下を向いていた。鉄工所で履いている緑色の安全靴があの娘にどう見られているか気になりだした。
「無理を言ったみたいですみません。一パック四百円で、九パックで3600円です。ありがとうございました」
 ビニール袋に入ったおみやげを受け取ると、班目が一つ目の質問に切り出した。祈り、または愛の宣告に近しい感情であふれ出た言葉は、血を吐くような思いだった。言いながら首を小さく横に振っていた。今更ながら自分は今、ずっと想い描いてきた人物を目の前にしていることがはっきりしてきて、白昼夢を見ているような、気の締まらないになった。店員がその質問に答えると、後はどうとでもなった。
 興味のあることを人に聞くというのは、通常の人ならなんてことはないのかも知れないが、班目にとって懐かしい感覚だった。
 K市の市長選挙があるというと、駅前に立ってどこを変えて欲しいか通行人に意見を聞いて回ったり、ミシュランで二つ星をとった料亭で口数の少ない料理長相手にどう話を引きだそうか、夜遅くまで調べ物をしていた、新聞記者時代の記憶が蘇ってきた。あのころ、がんばって人と話していた頃の感覚を思い出した。
 意識の持ちように頼らずに、班目は普通に話すことができていた。次の話題へとつながる枝が何脚にもなってうねうねと伸びるのだった。
 班目は店員のことを知っていった。
 勤め先のあの崖の旅館はみんな優しくて働きやすいということ。接客が楽しいということ。このあたりには幽霊目撃談を聞いたことがなく、心霊スポットなどというものも見当たらないということ。日帰り温泉は土日は忙しいときもあれば、空いているときもあって、必ず人がいないという保証がないということ。あの娘が菅原沙希という名前であること。ホットプレートなど浮き石などがあるが、温泉から見える巨大な岩には特別名前もなく、近辺の谷では珍しいものではないということ。地元がS市なので、近辺には詳しいということ。
 店員から見て自分が三十歳には見えず、もっと年がいっているものだと思っていたと告げるその言い方や表情が、自分が殺意を沸かない言い方や表情ができるテクニシャンだということ。
 名古屋の大学に受かって、来年には都心で一人暮らしを始めること。
 十八歳の高校生であるということ。
「時間は大丈夫ですか」
「そろそろ行きます。一人で遠出すると寂しいものがありますんで、いろいろ聞いてしまったみたいです。見慣れない地に来ると、いろんな疑問がわきますんで、地元の方に尋ねることができてよかったです」
「ありがとうございました。また来てくださいね」
 店員がお辞儀をした。ありがとうございましたという温かい言葉に身が震えて、班目がちびちびとお辞儀をして頭を上げると、店員が肩ほどの高さで、三度ほど柔らかく手を振る。班目はその姿に目を丸くした。信じられなかった。
 あの娘が俺に手を振っている。
 この人自分に愛想よくするなんて。頭がおかしいのではないかと班目は感じた。そして、親切に接してくれた人に穿った考えを抱くことに、自分に自信が持てないことがこんなにも惨めなことなのだと思い知るのだった。


   土日Ⅷ


 キャリーバッグを引きずっている、がたいのいい男が坂を上がっている姿を見て、心臓が飛び出そうになるほど驚いた。あともう少しで大きな声を出しそうになるところだった。
「すいません」
 班目は猫背で謝った。
「こちらこそ」
 がたいのいい男は頷いた。
 花柄のワンピースを着た栗色の髪を伸ばした背の高い女が顔を下に向けた。見てはいけないものでも見たかのように。一瞬班目に向けたのは、白い目だった。
「俺を見ないでくれ」
 その後ろにいる老夫婦が歩いていると、班目はその老夫婦の方に吸い込まれそうになった。
にじみよってくる男に気づき、にじみよる男に気づき、駆け足になって、遠ざかり、二人とも白い目で班目を見た。
「見ないでくれ。見ないでくれ」
 班目は駐車場の一番奥の正面駐車したスズキの車に帰った。木陰で直射日光を避けており、また山奥ともあって、車内はぬるく、灼熱地獄をまぬがれていた。
 頭を激しく揺さぶったり、瞼を強くつむったりした。
 まだハイは続いていた。あの娘と会話したことが嘘のようだった。あの娘と会話した余韻や達成感が全く感じないのは、自分には縁がないものだと切り話したからなのだろうか、と班目は思った。意識とリンクできずに現実世界を静かにさまよっていた。クリアな視界は狂気的だった。
「どうしょう。運転できそうにない」
 一旦横になって睡眠をとることにした。空気が蒸して暑かったが、窓を開けることはできなかった。ある程度広い駐車場で、一番奥に駐車したにもかかわらず、まだ手前に空きがあるにもかかわらず、隣に車が駐車していた。持ち主が帰ってくることを思うと怖いと感じるようになってしまっていたのだった。ガラス窓一枚あるだけで緊迫感が薄れた。
 汗をだらだらシャツに浸み込ませながら、運転席で卵のように膝を抱えて座り込むと、班目は薄く目を開けて、頬に一筋伝うなにかを感じた。それから浅い眠りについた。
 班目がデジタル時計を見ると、午後三時四十一分と表示されていた。あれから二時間寝ていたのだった。
 体調は、優れているかどうかわからなかった。いってみれば、睡眠前も調子が良かった。しかしどこかの神経がだめになっている、と班目は思った。青い空が澄み渡っていて気持ち悪かった。
 仕事を休もうと思った。
「しかし風邪じゃない。体調も崩してない。睡眠もとった。女の子と会話は出来るのに、仕事は休むのか」
 蝉の鳴き声が急に大きくなったように感じた。
「仕事を休めというのか」
 班目は車の中で叫んだ。まわりに聞こえても構わなかった。きょろきょろして、後ろを振り向いたり、白い眼をしている観光客がいたら、今度こそ殺してやろうと思った。
 少しおかしな、人よりずれた動向をしているってだけで、市民権を得たかのように、我が物顔で他人に対して白い目で見るような愚鈍な奴は殺したほうが世のためになると思った。なにより班目は自分がいきなり大声を出したことにびっくりした。
(外に出られるか)
 内から声が聞こえた。じめじめした、膜の中から聞こえるような、はっきりとしない声だった。
「がんばれば」
(じゃあ、出てくれ)
 班目はドアハンドルに手を掛けた。
(扉を開けすぎないように気を付けろ。黒いワンボックスがまだ停まってる)
 身体を車から出た。
(看板を見ろ)
 看板はトイレの向こうに立てられていた。大きな看板だった。一度全体を見渡して、人がいないか確認した。もし今、車や自転車、人が視界にはいってきたら、驚いて心臓が破裂しそうだった。駐車場は静かだった。静かのまま、看板までたどり着いた。
 地図を見た。A県の山脈町村四つが記されていた。
鳳来寺山
 石段を登り歴史を巡る旅に出る、というキャッチフレーズが付けられていた。
(そこに行くんだ)
「わかった」
 道順を頭に叩き込む。車へと歩いていく。


   土日Ⅸ


 駐車場から出て、左方面の鳳来寺山パークウェイへと向かった。車が山を登っていった。十五時半のオレンジがかった日差しによって、青葉が赤みを帯びていた。FMに局を設定したカーステレオからは、山に電波が遮られて、砂嵐が車内に延々と流れていた。
 班目は小さな頃見た夢を思い出した。車を運転しているものの、自分の身体が小さすぎて、下に潜ってアクセルを踏んでハンドルをバーベルのように持ち上げながら、フロントガラスが見えないまま操縦しているあの夢を。今はそんな気分だった。アクセルを踏む足も、ハンドルを握っている感覚もどことなく頼りなかった。
 道路の端に設置されているガードレールの先は崖だった。高いところまで行っているにも関わらず、見える景色は山ばかりだった。その白くて長い帯の建設物はどこまでいっても大きなものがぶつけられたようなへこみがなかった。操作性の危うさから、まともでない自分がその第一号になるのではないかと、頭の片隅で感じるのだった。
「会話が弾んだってこっちは感じているだけで、ずうずうしい話だけど。もし告白して付き合うことができたら。仮に。三十と十八のカップル、俺の精神的な未熟さを認めたうえでの交際だとして、あんなに笑ったり楽しそうにしたり、元気があったり、そんな娘が傍に居たら、がんばって生きて行こうと思えるのかな。これも俺が十代二十代がんばってこなかった報いだよな。まともな人間になろうとして、なれなかった俺の意志の弱さだよな。それに振り回されるとなると、あの娘がかわいそうだな。俺の器が小さいのか。年が離れた夫婦だっていくらかいる。今頭に浮かんできた芸能界のペア何組と俺と比べると、どうしてもそのグループには入れない気がするんだよ。俺の場合は、一年に一回報道される、十一歳の小学生の友達が言うことを聞かなくて、二十歳の無職が原型がなくなるまで殴り殺すみたいな、そんな幼い関係の気がするんだよ」
 班目はたまらなくなって、ボタンを押して窓を開けた。左手で空いたリュックから質問ノートを取り出し、窓から外に出そうとした。窓が半開きだったため、ページが開いたノートが、引っ掛かってうまく外に投げ出せなかった。その光景が飛行機のスクリューに飲み込まれてもがいている鳥を連想させた。運転を危惧していた数秒前などおかまいなしだった。
「このやろう。誰が幼いだ」
 右手で握りつぶして、くしゃくしゃになったノートが車の窓から放り出された。ノートは無惨にも車道の上で跳ね回り、速度三十の標識近くまで転がっていくと、対向車線の車のタイヤに潰された。白のスズキは白い物体に動物かなにかと勘違いしたのか、急ブレーキをかけた。
 班目はすでに見えなくなったその車に頭を下げて謝った。
「すいません、大丈夫ですか。悪いことしたな。平穏な日曜日のドライブにノイズを入れて」
 道を走っていると、右側に狭くて暗い道路があったことに気が付いた。今走っている三十二号線と比べると、ぱっとしなかったし、山道特有の進んだ先が行き止まりという、何のために存在しているのかわからないような道に思えた。
「駐車場って今のところか。道を間違えたのか」
(この先にある表参道からでも行ける)
「曲がるなら曲がるって言えよ」


   土日Ⅹ


 午後四時になり、下山する人々と入れ替えに班目は登山へと繰り出していった。蝉の中にひぐらしの鳴き声が混ざっていた。山に寄り添って建てられた豪邸や、レトロな金物屋、大体の建物は大きかった。一点だけある飲食店の駐車場には人が立っており、駐車料金をせしめようとしていた。この先にも同じような光景があった。たまに後ろから車が入ってきて、道の両端へと人が裂けた。その車がこの先の駐車場に停まるのか、表参道の住民なのかは班目にはわからなかった。
 山道の入り口には、闇に包まれた公衆トイレと、「六時には日が暮れるので、それまでにはふもとに戻ってください、鳳来寺山観光組合」と描かれた看板がかけられていた。
 山道は舗装されていて、幅が広く、班目が道の外側に沿って下を向きながら歩いても、下山する人とぶつかる心配はなかった。登山の装備を備えた年配の五人組とすれ違った。サンダルが視界の中に入ると、それが若い女性のものだとわかった。彼氏は白いシャツに黒いベスト、黒いハットをかぶっていた。八人の登山サークルのような若者の集団も登山を楽しんでいた。荒々しい吐息を出しならが山を下りる細身の女性が、年の離れた中年男に手を引かれていた。
 外れの段差に座って休憩していたピンクのハットをかぶった男の前を通り過ぎると、少し酒の匂いがした。
「頂上まで登るの。こんな時間から」
 声のする方へと振り向いた。
 中年が後ろの若者に声をかけていた。少し視界に入った若者は、チノパンを穿いていた。藍色のシャツ、赤いナイキのスニーカー、痛んだ黄色のリュックサック、一眼レフカメラを首からぶら下げた、冴えない青年だった。
 若い男は中年男性を歓迎しているように思えた。一人で遠出している場合、人恋しくなり、少しの人との触れ合いでも、温かい気持ちになるという経験は、班目にもある。まるで別人になったかのように振る舞うことができるのが旅の醍醐味だ。
「新しく買ったカメラの試し撮りしたくて。お酒を飲んでいるんですか」
 若者が不信めいた声を出した。
「気付け程度でね。飲んでいないと、だめなんだ」
「危険ですよ」
「そんなことはない。死ぬことはない。死ねないんだよ。死ねる人と死ねない人がいるんだよ。どうしようもないくず人間は死ねないようになっているんだよ。二週間前も八田山にカップ酒を二杯飲んで登ったけど、一度も転ぶことはない。大学時代に登山部だったとしても、ビール腹かかえたこんな中年でも、転ぶことはない」
 班目は二人の後ろを歩いていた。次第に距離が離れていき、見えなくなっても、男の声だけは聞こえていた。班目自身の心の声のように、どこまでも鳴り響くのだった。
「山には魔力があるんだよ。生命力にあふれてる。登山するだけでエネルギーに満たされる。俺は山によって生かされているといってもいい。このばかみたいにだだっぴろい山の中にいると、物事全てがどうでもよくなる。がんばって登り切れば、さらに大きな世界を味わえるおまけつきでな」
「同感です」
「俺は保険に入っているんだ。山で死ねば、事故なのか自殺なのか判別しにくい。保険もおりやすいというわけだ。公には晒されていないが、富士山でも事故死はあるし、この山だって毎年死人が出ている。人が来なくなるし、地元の店は赤字になるし、山里の過疎が進むし、報道してなんの良いこともない。暗に注意するんだよ。登山に適した服装と靴をとか、迷わないように看板を設置したりとか、非常食を用意、とか。いつ死ぬかわからない。俺が死んでも、奥さんとガキ二人が困らないように、保険金が入ってくるように常にしてある。加入二年以上なら自殺で保険金が降りる。どうしてかわかるかい。自殺目的で入られたら、会社からお金が出ていく一方だろ。自殺願望を二年も持ち続けているわけがないだろうと、保険会社は踏んでいるのさ。俺が保険に入って三年目になる。だが、三年では人も状況も変わらないんだよ」
「じゃあ今日は死ねるといいですね」
 中腹に近づくと、歩道が不並びな自然石から、しっかりとした石垣に変わる。天上の枝葉からこぼれる橙色の光で山道内が火が付くように照る。山中に現れる空は白く、中腹へ上がる階段は天国に通じるかのようだ。
 表参道の階段を上がり終える。設置されたベンチに先ほどのピンク色の帽子をかぶった中年男性が座っている。カメラを持った若者はいない。
 鳳来寺周辺には人がいる。景色を眺める人。PSPを持って顔を画面に向けて熱中している子供ら。山岳帽をかぶった一人の男がヒールを履いた若い女にカメラを向ける。
 方向表示の看板を確認する。山頂へと続く石段と鳳来寺で道が分かれている。人が活気づくそこには行かず、再び山を登り出す。
 中年男性は班目の後ろにいた同年代ぐらいの男に同じように声をかけていた。


   土日Ⅺ


 頂上までは一.一キロあった。鐘楼、鏡岩、六本杉、奥の院を潜り抜けた先の瑠璃山、標高六百九十五メートルのものであり、そこが鳳来寺山の頂上となった。
 表参道から仁王門をくぐり、日本名木百選の一つである「傘杉」(班目は顔をうつむかせていて存在に気づくことはなかったが)を超えた本堂までは二・三キロ、一時間の道のりだった。時計を見ると、四時五十分を針が指していた。
 頂上までの道のりは階段が急斜面になっていて、手すりが設置されていた。中央は棒で仕切られていて、行きと帰りがぶつからないようにされていた。本堂までは登山者がいたが、この時間から山頂を目指そうという人は今のところ見当たらず、下山しようとしている人ともすれ違うこともなかった。山頂への道は班目一人いるだけだった。
 ハイになった精神状態は恐怖どころか、疲労も感じない。息は上がってはいるものの、どこまでも行けそうな高揚感が、班目の中にもくもくと怪しく噴き出ているのだった。
 班目は左の崖崩れから強い光がさしているのを発見すると、正面に見える階段を尻目に、正規ルートから外れだした。ちょうど歩くのに邪魔なものがなく、岩が階段のように段差を作っていたので、足を踏み入れれば登ることは容易だった。落ち葉が腐食した地面は平らになっていて、柔らかくなっていた。班目は草木をかきわけて光の見える場所へと歩く。
 出た先は岩肌だ。来る時に見た鳳来寺山のポスターの、木々が禿げてむき出しになって、巨石が落下した後のあの部分に位置しているのだと思った。
 太陽は強力な閃光を発つ。まともに目を向けることも難しい。形状は波打ち、空は火炎が回る。足元は深い緑の束がこちらに向いて伸びている。柵もロープもない。
 大人が一人分だけ乗れるようなでっぱりがある。足場を見つけるとそこに片足ずつ乗せていく。そっと座る。足場は班目の体重を難なく支える。
 岩の溝に生えた草を千切る。茎を口で咥える。キャップをかぶったにきび顔のひねくれものがするように。班目は日曜名作劇場のオープニングの中にいる気分だ。
「班目君」
 ぴんと張った木の枝がグレーのピンクのチェックズボンを貫いた。緑色のジャケットが枝に引っかかり、葉っぱを何枚かくっつけていた。ズボンには穴が開き、折れた木の枝が引っかかっていた。俺は班目を少し離れたところに立って見守った。
「班目君」
 俺は登山ルートから背中を丸めながら班目のいる岩肌に出ようとした。班目の小柄な体系とは違い、俺の百八十ある高い身長では容易に抜けられない。


   土日Ⅻ


「班目君、新しい意識の持ちようだよ」
 俺はアメリカナイズした服にくっついた木の葉を振り払う。
「その場で大きくジャンプしよう。頭に振動を起こすことで、嫌なことを忘れて、一睡したような、リセットした心地よさが身体中に広がっていく。運動にもなるから、身体がなまった感じも解消される。部屋でも外でもどこでもできる。最高の気分転換法だ」
 太陽は大きくて、自分たちを食らい尽しそうだ。それを背負うおかげで、班目の身体は黒い影の塊に見える。様子の分からないそれに声をかけているのは気味が悪い。
 影の口に挟んでいた茎がぺっと吐かれて宙に舞う。
「朝のFMでやってたやつじゃないか」
「まあそうだけど」
「『意識の持ちよう』っていうのは、あの娘に合わせるためのものか。頭の鐘も、硫酸も、老人化も、全部本人の本来の力を弱体化させるものばかり。三十二歳が十七歳に、おじさんが女子校生に合わせるための『意識の持ちよう』。質問ノートがあったとはいえ、あんなに話が弾むはずがなかったんだ」
「そうだよ。班目君が悔しがってたから。自分からあの娘にアタックするのは斑目君には難しいだろうから、弱々しくしてあの娘の母性をくすぐるような立ち回りにしたんだよ。こっちも調節が大変だったよ。十七の女子の母性を引き出そうというのだから。どうだった。あの娘との会話。楽しかっただろう。班目君は強くそれを望んでいたんだもんな。会話できて良かっただろう。若い女と心を通わすことができて幸福だろう。これでこの世に思い残すこともないだろう」
 影はそのまま動かない。太陽の日差しは一向に強まるばかりだ。
「いいから、飛び跳ねてみてくれよ。班目君がハイと呼んでいる、頭のぼんやりが治るから」
「このバランスがとれない感覚はなんだ。七時間睡眠とっても、風呂に入っても、直らないぞ。身体を覆っている膜を失った気分だ」
「心が何も感じなくなっているんだよ。すべての感覚が受け入れられず拒絶している状態だ。パニック症候群の前兆、うつ病の傾向。週六の勤務は班目君が思っている以上にきつかったんだ」
「あらゆる手段を使って、体調には気を遣った。そのはずだぞ」
「体力ないよなあ。本当に。社会人は週六ぐらい働けて当たり前。俺らはそうじゃない。意識の持ちようをふんだんに使って、へとへとになって気力を出し切って、無理をしてやっと人との会話が成り立つんだよ。地中深く潜っているおかげで、頭を出すまでの時間が人より遅い。普通なんて暗くて脆い人間の道理にかなわない」
「俺はどこも悪くないぞ。三十二歳になって、鉄工所の簡単な部類の仕事していて、うつ病になるっていうのか。俺はどこまで出来損ないの人間だよ。それにぴょんぴょん飛び跳ねるだけで、うつ病って治るのかよ」
「嫌なことが溜まっているんだ。それを忘れさせるためだよ」
「こうか」
 影が立ち上がる。斜面の岩の上で一瞬だけ足が浮く。
「そうそう!」
 俺は自分の口の水分がなくなっていることに気が付く。甘いものを食べたかのように粘り気に満ちている。口角が神経質に硬くなる。膝をがくがく揺らす。首をひねる。筋肉をほぐす。
 班目の影がもう一度跳ねる。それから、三、四と回数を重ねる。力を加減した跳躍力で、七、八、と岩肌に足を着ける。班目が一つ飛ぶだけで、俺は喉元が締め付けられるような感じがしたし、心臓もドラムロールを打つ。
「こうかい」
「そうそう!」
 土踏まずが岩の鋭く尖がった部分に刺さり、着地に失敗して重心を後ろに持っていかれると、腕をぐるぐる回しながら仰け反り、班目の足と頭の位置が逆転した。班目が顔に恐怖の形相を浮かばせたが最後、俺が立っている所から見えなくなると、頭部を強く打ち付けて頭蓋骨が割れるような鈍い音を聞いた。そのままずるずると斜面を滑っていって、下の方から鳥が羽ばたくたつ音が鳳来寺山全体に響き渡る。
 すぐにその時間はやってくる。簡単に。そのために俺はここにいる。
 しかし現実の班目はまだ目の前で跳んでいる。千四百二十五の石段を上がったその足で。ハイという心のリミッターがぶっ壊れた精神状態で。観光協会も知らない鳳来岩の狭い足場で。鉄工所で使用している靴だ。底には頑丈なゴムがついて床を歩くとキュッキュと子供サンダルのような音がする。登山には向かない緑色の靴。
 同じペースで跳び続ける。このまま三日経っても同じことをし続けるのではないか。そんな気さえする。
「八束作ればいい。今、自分が逃げるわけにはいかない。ピークで忙しい。キャップ打ちは俺以外にもできる。どうにでもなる単純作業。だが手が空いている人間など鉄工所のどこにもいない。俺がいなくなったら、鉄工所はどうなるんだ」
 班目はぶつぶつ言う。その発言が虚勢なのか本心なのか、判別できない。湯谷温泉の駐車場で人の姿すらおびえていた男がこんなことを言うこと自体が正気でないように思える。
 班目喜吉は如何なる場所にも適応できず、誰からも相手にされなかった、というのが俺の認識だった。死んでやっと、少しは再評価してやろうという人間が現れて、三日後には味がなくなるようなちっぽけな男だ。
 鉄工所では二年間従業員の中で最も簡単な仕事で止まっていることに疑問も持たなかった(本人は悩んでいたようだが、ほったらかし同然だった)。
 罰ゲームです、みたいな顔をして突っ立っている店員に、親切にされたい、優しくされたいと、一人暮らしの年寄りのように惨めったらしい風をなびかせて、粗末な扱いをされて勝手に落ち込んでいるような男だった。
 俺はそいつに恐怖を感じる。
「いつまでこうしていればいいんだい」
「まあ、続けてくれ。良くなり始めるから。きっと」
 いまだに班目の顔を見ることができていない。声は本人そのものだった。俺はもっと事がすぐ済むものだと思っていた。三つでも跳んでしまえばそれでは終了なはずだった。
 きっとこのまま跳ばせておけばいつか勝手に足がもつれて潰れたトマトになるはずだった。体力には限界があるのだから。俺は安心して上層部に顔を出すことができるというわけだ。しかし俺は焦っていたし、この一手が良くなかったと後で悔いることになるのだった。
「班目君、もうやめよう。この意識の持ちようは君には合わなかったようだ。ごめんよ。もう跳ばなくていいからさ、その顔を俺に見せてくれよ。ずっと太陽を背負っていて、一回も顔をまともに見ていないんだ。実はけっこうかっこいい顔をしてると思ってるんだ。あの娘もメロメロにするような、工夫次第でスラッとなれるかもしれないぜ。俺がヒントを与えてやるからさ」
 俺が歩み寄る。日の光が少し和らぐ。コントラストが下がる。シルエットでしかなかない班目の身体が、表情が見えてくる。
 班目の目は見開き、裂けるように口をひん曲げて笑っている。
 気持ち悪い奴め。
「もっと高く飛んだらどうだいいィィィィィィィィィィィィ」
 黒い影の背中に迫る。腕を伸ばして足場から落とそうとする。
 班目の身体が半回転する。急に自分の顔面が熱っぽくなり激しい痛みとなって倒れ込む。何が起こったのか分からない。もしかしたら知らぬ間に奴が石を手にしてそれを投げつけたかもしれない。
 腹に班目が馬乗りになる。俺の顔面を殴りにかかる。強く握られた拳をぶつけてくる。それを両手で 頭を両手でつかまれて地面に後頭部を叩きつけられた。俺もどうにかして抵抗しようとその腕を振りほどこうとするのだが力が抜けていて、びくともしなかった。
「お前なんかが死に抵抗してどうするの」
 風が吹いて時間が止まったように感じる。今の時期が初夏とは思えぬほど肌寒い。太陽がこんなにも近いのに光が見えない。鳳来岩は氷の世界だ。
「三週間まで鉄工所で働こうが一向に構わない。だけどこのままだと病院通いになるぞ。今まで貯めてきたお金は満足に使うこともできず、家賃と通院費と税金に取られていくんだよ。壊れた人間として、まともに働けない暗い人生を送ることになる。社長に言って早期退職させてもらえ。それか明日休むことだ。逃げ出して三十二歳で不利な経歴がつくわけじゃない。土下座でもして辞めさせてもらえ。キャップ付けなんて代用はいくらでもきく。お前が一生直らない病気を抱えてまで背負い込む必要はないんだ。『意識の持ちよう』はあの娘に対するものだけじゃない。自分の存在をなくして、その場に溶け込んでいられるようにするものだ。『意識の持ちよう』が発動できない今、お前は作業場に立てるのかよ。それとも自分に自信はついたのか。生きていくことを望むなら、俺の、講師である俺からの最後の意識の持ちようを紹介しよう。『自分に自信を持て』。あっはっはっは。弱者を食い物にしているような世の中の仕組みでも、お前の場合でいうならば、湯谷温泉の娘のスガワラなんとかちゃんで勃起したちんぽこの慰めものにしても、厚かましく、それらがまるでなかったかのように、自称まともなあの連中たちのように図々しく生きていくんだよ。俺が登山時の不運な事故にしてやる。自殺でないように仕向けてやるよ。それでいいだろ」
 俺の頬が岩の角に触れて、班目によってゆっくり強く当てられて、細い線上に血が流れ出た。
「痛い痛い痛い、やめてくれよ」
 班目は俺の頭を持ち上げた。勢いよく下ろして地面に叩き付けた。岩石の角だ。俺の眼窩に突き刺さり、右目とその侵入物が繋がった。
「なにするんだよ。てめえ」
 手も足も動かなくなってぐったりする俺の身体に馬乗りになった。班目は顔を何度も岩で殴り、動けなくなった俺の顔面が血達磨になるまで殴り続けた。涙は顔に滴る血に交じってしまった。班目が愉快な玩具で夢中になっている子供のように思えた。強い衝撃を与えると赤い血が出てくる俺の顔で遊んでいた。
 班目は俺の両肩に手をかけて身体を引きずっていった。班目がそっと俺の頭を掴んでそこに当てた。岩肌に溝ができていて、その斜面がネズミ返しになっていて、湾曲に尖っていた。それが後頭部の感触で分かると、俺の手足がぴくっと痙攣をおこした。
「理由述べろよ、おい」
 俺はその位置からずれようとした。再び馬乗りになった班目を手で押さえ、足をばたつかせて、身体をねじろうとしたがびくともしかなった。班目が俺の頭を掴んで宙に投げた。首に負担をかけて、頭部の落下を避けようとした。
「許して、許して下さい。すいませんでした」
 顔面に岩石で殴りつけられて、後頭部が尖った岩肌に激突した。岩肌の方が耐久力なく折れてくれ、と俺は祈った。割れた頭はスイカのように、血を吹きだして真っ赤な果汁の水たまりを岩肌の溝に溜めていった。俺は抵抗しようと手を伸ばすのをやめた。
 俺は生きることをあきらめた。未だに班目は焼け付く太陽を背に浴びて、黒い影になっていた。俺の薄ぼんやりとした生気のない左目が自分に向いていることに苛ついて、右目同様の仕打ちを受けるかもしれなかったが、その心配はなかった。
 おでこから滴る血におぼれていて、まともに視界がままならないし、あちら側からもどこに目玉が付いているか判別は難しいはずだった。俺は安心して、後頭部を殴打する班目の表情をぼんやりとみていた。
 班目は血の付いた岩石を放り投げた。向こうの湿った枯れ葉の上に着地した。黒い太陽のような班目の頭部が、俺の眼前に迫った。
「お前もおかしなやつだな。さっきのおじさんの話を聞いてないのか。クズは死ぬ道も残されていないんだよ」
「でもな、斑目君。『意識の持ちよう』ってのは誰にでもあるんだよ。素顔で生きていられる人間なんていない。誰もが何者かを演じている。疲れて無理するのは当然なんだ。お前の距離感はそれで正しいんだ。普通にいるとか、リラックスだなんてそんな距離感で生きていられる人間の言葉なんて鵜呑みにするな。このまま帰るわけじゃないだろうな。飛べよ。飛んだらすべてが終わりなんだ。飛べよ。どこにいくんだよ」
「仕事だよ」
 崖から離れる。草と木のトンネルへと戻る。枝葉の屋根はちょうど背丈ぴったりで、頭をかすめることなくすんなり山の中へと潜っていく。
 班目が時計を見ると、午後七時を回っていた。下山するには遅すぎる時間だ。小さな黒点の集まりが山道の真ん中を占領する。そこを通った班目の目や鼻や口に異物が混入し、わっと声を出して顔を覆った。
 暗闇に目が慣れる。風景の輪郭が浮かび上がる。ベンチには誰も座っていない。鳳来寺の休憩所にも。帰りの石段の真ん中を歩いた。夜の山は冷え込む。腕は蚊に刺されと鳥肌でぶつぶつができる。
 一人で何やってるんだろう。
 痰が絡んで声とは思えぬほどの雑音が出る。


   八束Ⅰ


 朝起きると、すでにセミの鳴き声がしていた。今日も暑い日になりそうだった。鳳来寺山での登山で足が張っていた。筋肉痛には至らずに済んだようだ。
 便所に行くと、ズボンを下ろし、亀頭を出して尿を垂れ流した。しょんべんが便器に落ちる音を聞きながら用を済ますと、水を流した。トイレから出た。それから班目は寝間着を脱いで、半そでの作業服に着替えだした。
 部屋が重苦しく感じて、土色のカーテンを開けた。枠が黒くくすんでいて、カビが繁殖していることが分かった。光が入ってきた。西側のカーテンを横にどかした。窓から白い明かりが射して、班目の身体がきらきら輝く光に包まれた。
 この部屋ってこんなに明るかったのか。
 班目は唸り声を上げると、当時のことを思い出した。どこか病的な明るさを感じて、自分には毒のように感じて、遮光性の高いカーテンを購入し、それで閉め切ったのだ。あれは働いてからすぐのことだった。暗闇を好むことも、外に出ることも、店員が怖くなったことも、働きだしてからだった。
 班目は再びカーテンを閉めた。今も光を浴びることに躊躇することに変わりなかった。恐怖を感じることで、ハイ状態は去ったのではないか、いつもの自分に戻ったのではないかと少しほっとした。
 ウォークマンを取り出すと、イヤホンを両耳に差し込んで、ディヴィッド・リンチの「イレイザーヘッド」のサウンドトラックを再生した。暗い曲が鳴り響いた。月曜日には必ずこうした。「エルム街の悪夢」のあの替え歌のようにならないための対策だった。
 アイマスクを装着して、ベッドに座った。どうしても自分が部屋にいるイメージが頭にこびりついて離れないことと、姿勢がまっすぐになっていることで、落ち着かなかった。タオルケットを頭にかぶせて横に倒れる。出勤時間までそうする。両足が小刻みに動いて、落ち着かなかった。無意識に胃のあたりをさすった。
 一曲終わると、タオルケットから脱皮した。カーテンの開いた部屋が眩しかった。


   八束Ⅱ


 「悪夢の鉄則」の「土日楽しいことをする」の判定が下されたらしい。
 心臓が高鳴った。冷や汗が脇や額に噴き出てきた。二年間通い詰めてきた職場と思えないほど馴染めなかった。三十二歳になって、昼休みになったら逃げ出すことも考えだす始末だった。 「意識の持ちよう」という武装を解除して人前を歩くのは心許ない。相変わらず「意識の持ちよう」はどれも使えない。ハイ状態ではするするとすりおちる。頭の鐘も老人化も自分の身体に浸透しない。このままここにいることはできないと思い始めた。明日は休むことも検討した。自分を励まし続ける。作業を続けられるようにしていた。
 昼休みになると、すぐには食堂にはいかずに、その場でじっとしていた。人の流れが怖い。水道やトイレに十七人もの作業員が集まる。その塊が小さくなるのを待つ。
「おい、班目。休憩だぞ」
 所長が声をかけた。神経質にびくっと身体が跳ねる。何も言えずに口をパクパクさせる。睡眠時間は八時間近く摂った。にも拘わらずこの落ち着きのなさだ。
 人が途切れたところで、持ち場から通路へ移動し、食堂の水道に向かっていった。手を洗い、ポケットからハンカチを出して水気をふくと、テーブルに座ろうか迷った。今の心境でここにいられるか不安だった。迷いながら、ふらふら歩いて、結局いつもの椅子に座った。弁当を食べて、いつものように機械のとなりに段ボールをしいて、そこに腰を下ろし、膝を抱えて座ると目をつぶった。意識が回復することを、今日が無事終わることを祈った。
 所長の声がする。
「班目は自分の態度を改めないといけない。ここに何しに来ているか、なにも考えていない。あいつは一生こきつかわれるだけで人生が終わる。接客もできないだろうし。事務はこの商業地では人が足りているし、ラインの仕事もあんなに作業が遅けりゃクビだしな。これからこの鉄工所を辞めて勤まる所なんて、あいつにはないよ。ずるい考えをして生きてきたあいつを人事は通さないだろうしな。社長もそう考えてあいつを置いてきてやったのに」
 従業員の数人もへえ、やら、馴染もうという気がない、やら、顔つきが人殺しみたい、やら、所長の意見に同意する。
 誰も班目の昼休みの行動パターンを、弁当を食べた後、鉄工所内に座っていることを、会話の内容を本人が聞いていることを誰も知らないようだった。参加者全員が本人に聞こえていると思っていないような口ぶりだった。
 耳を閉じる。何も聞こえぬようにする。硬くぎゅっと目をつぶる。完全なる暗闇を求めて瞼の裏の景色を彷徨う。
 無数の線香花火のような光が散る。
 班目は夜の田園の道に立っている。


   八束Ⅲ


 S市のお祭りがやっていた。手を伸ばせば触れられそう巨大な満月が空に浮く。クオーターの穴ぼこの一つ一つまでくっきり見える。電灯が灯らずとも淡くて白い月光が田園を照らす。あの娘は緑や黒のスタッフTシャツ姿ではなく、生地のあちこちにハイビスカスが添えられた浴衣を羽織る。
「ありがとうございました。また来てくださいね」
 あの娘の姿をした発泡スチロールの等身大パネルが工事現場の人形のごとく手を振る。自分に愛想を寄せることに不信感を抱く。
 また来てくださいねって、あんた、警戒心っていうものはないのか。黒い服を着た一人客に精一杯の愛想を振りまくことが接客だっていうのか。俺が頭のおかしな人間だということを思わなかったのか。
 みんな気が付いていたぜ。ベルトコンベアに流れてきた不良品みたいに扱ってきたぜ。みんなこいつに優しくしたら良くない人間だってわかるんだな。つけあがって、もっと優しくされたいと思う、孤独で寂しい男だってわかるんだよ。それで仲良くして少しでもつき離れたら裏切られた、とかいって刺し殺しに来るような人間だってわかっちまうんだな。
 あんな接客して、つきまとわれるってどうして思わなかったの。こうやって俺はあんたの浴衣姿を想像してしまっているんだよ。あんただけだよ。こんなどんくさい顔をした、性犯罪者みたいな男に優しくするなんて。命知らずだね。
 今すぐその態度やめたほうがいいよ。ドラッグストアQすりのあの三人の女性店員みたいな態度をしたほうがいいよ。世の中のことがわかっていないってことが態度に出てる。見る人が見たらすぐわかる。
 一度しごかれたほうがいいよ。あんたのその愛想の良い顔が、日々の生活に耐え忍んで生きる貧しい顔になるまで。人に優しくすることを忘れた、自分で精いっぱいの人間の顔になるまで。間違った感覚だと気づくまで。
 痛い目を見ないとわからないか。あんな接客してると、いつかひどい目に遭うんだよ。優しいだけじゃ世の中渡っていけないってわからんか。
「俺がわからせてやろうか。あっはっはっは」
 パネルを蹴り上げる。二つに割れて地面に転がる。発泡スチロールの割れ目から、粒子が空中に吐き出される。
-なんでこんなことするの。来てよかったと思ってほしかっただけなのに。
 割れたパネルをしばらく見つめる。白いラジカセ、頭の中のラジカセがパネルの後ろにじっと佇んでいるのを発見する。
 「ありがとうございました。また来て下さいね」
 先ほどの声はあのラジカセから流れたのではないか。班目はラジカセに近づき、巻き戻しボタンを押す。きゅるきゅるとカセットが線を回収する。再生ボタンを押す。あの娘の声がする。「ありがとうございました。また来て下さいね」。
 あの娘の顔が足下に落ちている。ラジカセの再生ボタンを押しているのに、割れたパネルの中から声がする。夜風が吹く。パネルが地面を跳ねる。少し班目から遠ざかる。数センチの距離の移動が班目を孤独にさせる。
 あの娘の上半身と下半身のつなぎ目をじっと見つめる。自分の巻き起こした狂気を見つめる。
「おい、班目。仕事だぞ」
 班目の意識が急いで鉄工所に戻ってきた。
 眠ってしまった。
 班目が顔を上げて俺と目が合う。班目は呆気にとられた顔をする。今や俺の顔面は岩に潰されて真っ赤に腫れ上がって、夕日に照らされた昨日の鳳来岩そっくりだ。岩で潰された滴る血で緑色のジャケットを紫に変色させている。
「昨日はずいぶんやってくれたな。だが、仕返しをしに来たんじゃないぜ」
 班目の目は壁に掛けられた時計に向かう。まだ休憩時間内。十二時三十八分だと認識できたはずだ。班目の手が両耳から離れた。すでに食堂では他の話に変わっていた。
 ぺちゃり。それを見た班目が急いで膝を抱えて座りだした。下を見やると、鉄工所の床に俺の左頬肉が落ちていた。
「お前、まだ八束作ることができてないな。このあと、一時になったら、もしくはその後か。詳しい時間は俺にはわからないが、所長が何束できたのか聞きに来る。今のうちにやっておけ。うっとうしいことを言われる前に。休憩だからといって、仕事をするなとかいって止める人間はいないさ。今はピークなのだから」
 班目は俺の右目の空洞を見つめる。弱々しく首を横に振る。
「ここまできたら意地だな」
 俺が見守る中、班目が立ち上がる。点々と黒く濡れた段ボールを定位置に片付けて、持ち場へと歩く。机に四つのレールの束が山積みされている。「おい、給料が出てるってこと忘れたのか。これしかできてないなんて、どういうつもりだよ。くず」と心臓の鼓動が響く。
 俺は通路に出る。班目の丸い背中に目を送る。
「他のやつはもっと良いやり方があるなんてぐだついているけど、表に出てこられたのは俺だけでさ。お前には終わって欲しかった。何が正しいかなどという問題ではない。確固たる意志を貫いたからこそ俺は表に出てこられたんだよ」
 俺は欠けた頬を左手でそっと抑えながら、よろよろと奥の作動室の闇へと消えていった。
 レールにキャップをつけるときに、班目がボタンを押すと、穴のついた台が勢いよく発射される。キャップがレールを通り、台が引いていった。右端にキャップのついたレールを横に流して、再び部品をセットし、又一本とそれを繰り返した。
 テレビやパートたちの声のボリュームが、機械の作動音を大きく超えていて、安心して作業に集中できた。
 作業台にいる自分。夢の中の月光を受ける自分。それぞれの自分に意識が行ったり来たりする。
 手は作業をこなすために規則正しい動きをする。
 足はあの娘のパネルを粉々にする。
 ボタンを押して、発射台がピストンされて、レールにキャップが装着される。キャップのついたレールを机にどかして、一束できるまで数本並べる。
 発泡スチロールのパネルから噴き出した真っ白い粒子。あの娘のパネルの破片が鼻や口に入る。宙に舞うそれを乱暴な手つきで払いのける。再び膝を上げてパネルめがけて足を落下させる。踏みつけるたびに、粒子が巨大な月に舞い上がる。目や口や鼻に侵入しようとも、顔を振りながら、粉々にする。ラジカセの再生ボタンがいつの間にか押されて、石川秀美が「いかれてる、スイートボーイ、だけど誰よりも大切な人」と歌っている。
 班目はぼんやりとした暗い気力を取り戻した。きっとこれこそが自信であり、きっと正しい意識の持ちようなのだ。
 真人間の感覚に自分もようやくたどり着いたのだ。

   爆弾を、もっと爆弾を、さらなる殺傷力のある爆弾を


   完全なる暗闇Ⅰ

 午後八時。食べたお皿をシンクに置く。テレビのスイッチを切る。蛍光灯のひもを引っ張る。部屋がグレーの暗幕を張られて八畳の居間が大人しくなる。
 カーテンとカーテンには黒いテープが張られて間が空かないようにされている。窓の外は狭い路地だ。目の前の家には「立ち入り禁止」のテープが掛けられている。周辺はさほど明かりはない。しかし光は細菌や白アリや脱法ハーブのように侵入してくる。
 しかし仕事帰りの班目が過ごす場所は部屋ではない。小さな身体を折り曲げて押し入れの襖を開けて中に入る。毛玉だらけの茶色の座布団が敷いてあるのでそこに座る。築二十六年の賃貸アパートの戸は完全に閉まらない。かすかにできる隙間からの光を遮断するために座椅子の下に手を突っ込み、アイマスクを取り出す。それを付ける。
 低反発のポリエステルの中で目を開ける。光なき広がりの中にいる。目を閉じると瞼に光の残骸を 押し入れの中で目を開けている。目を瞑るより開けている方が暗いのだ。
 完全なる暗闇にいると頭の中で想像したものが目の前に映る。肉体を動かすのではなく、映像を動かすことで自分が動く。脳と動作が一致する幸福感を覚える。そのとき三十一歳の彼は少し若返った気持ちになる。
 しばらくそこで過ごすと、襖を開けてデジタル時計へと身体を這う。アイマスクを右目だけずらす。デジタル時計のライトを付ける。「22:05」。押し入れの中で二時間が経過する。あと一時間だけ、押し入れの中にいる。
 就寝三十分前には小さな電球の灯りで布団に入りながらドラゴンボールを読む。ページが破けてテープで留めてある。
 仕事がやってくる。引きずる重たい気持ちを振り払いながら。

 

 

   完全なる暗闇Ⅱ


 班(まだら)目(め)喜(き)吉(よし)が押し入れでの生活を始めたのは最近だ。勤めている鉄工所が大量注文からのピーク時期を迎え、週六の勤務が続いている。午前八半時から午後六時半。午後0時に眠り、六時半に起床する。ピークがいつ終わるのか、少なくとも班目の耳には届いていない。
 押し入れでの時間の流れはある程度は緩かった。班目はテレビが好きだが、観ているとあっという間に時間が流れるのだ。明日がやってくるスピードの速さに心が追いつかないのだ。押し入れには自分だけの落ち着く空間が広がっていて、何時間でもそこにいられた。
 押し入れの中で仕事のことを考える。ミスをしたらおしまいだ。指示が聞けない人間はクビを切られる。製造ノルマを達成できない人間は責められる。
 押し入れにいる時間が体感的に三十分だとすると、実際に経過するのは二時間だったりする。習慣が定着すると時の流れが速くなる。
 また新たに過ごし方を見つけなければならない。時間を遅くする、新しい習慣。遅く感じるのは最初だけ。味のしなくなったガムのように。愛の冷めた男女のように。アメリカの言いなりになる日本のように。買ったばかりの服の匂いのように。


   湯谷温泉のあの娘Ⅰ


 行きつけの健康ランド「楽園地獄」は満席だった。土曜日の午前九時、開店から一時間で駐車場をワゴンRと軽自動車でぱんぱんにしていた。
 予定変更が必要だった。温泉は必須だった。この週六日の勤務中、温泉のことを考え続けた。日曜日のこの日の温泉のために生きてきたのだ。
 班目は携帯電話のネット機能をこなせない。記憶から温泉地を探る。思いついた場所は辺境の地。そこまで車を走らせる。天気は曇天だ。車が山を越えるにつれて、フロントガラスから見える周辺が暗くなる。
 目的地は山脈地帯のS市の外れ。温泉街の「湯谷温泉」。夏場にとれる鮎が名産品。五月中旬はシーズンオフ。天気が優れないこともあるからか、駐車場は車が少ない。隅に駐車する。リュックサックを持ち、傘を握り、駐車場から出る。
 外れの旅館は予約なしで日帰り温泉ができるはずだ。温泉街に入っていく。土地勘はあった。仕事の関係で二年前に訪れていた。
 午前十時半。旅館にまぎれて長屋がある。バスケットボールのゴールのネットは千切れ、山積みになった木板は苔が浸食している。「なごみの館」と書かれたプレハブ小屋は、汚れたクッションやブルーシートが詰め込まれ、窓にはガムテープが貼られている。林道の奥に覗く百五十一号線はS市よりもさらなる山奥へと続く集団バイクや車体の低い車が活動的に飛ばしている。
 目的の旅館「朱雀」は竹やぶに囲まれて暗い。外壁は青コケにまみれて、一層黒ずんで見える。
 視界の端から視線を感じる。ゆっくり顔を向ける。熊が両手を挙げて、鬼の形相で直立している。少し竹藪の奥に置かれているせいで、木彫りの熊が後ろにいるように見える。少し膨らんだ腹は、「ウェルカム」と文字が刻んである。
 その隣には紐の付いたタイヤが三個置かれている。部活の合宿に使ったのかもしれない。そう思いながらタイヤの中を覗くと、水が溜まっている。
 入り口のガラスから中を覗く。ロビーは明かりが付いていない。外出用の旅館のサンダルが散っている。気持ちが萎縮しながら戸を引いた。鍵は掛けられていない。カラカラと扉が開く。班目を中へと誘う。
 薄暗いロビーに立つ。誰かが来ることを期待する。何も起こらない。
 両端の金色の障子が仕切りになっている。中央は座椅子が並ぶ。五十インチほどの立派なテレビが置かれているが、電源はついていない。奥の窓からは竹藪が並ぶ庭が白い光で輝いていた。隣のガラスケースには巨大蜂の巣が入っている。その横には鉄兜。
 班目は靴を脱いだ。右に見えるカウンターの前に立つ。
 明かりが付いている。事務所のようなごちゃごちゃした机が並んでいる。カウンターの上の小さな置き時計は午前十時四十分を指している。
 聞き覚えのあるテロップ音や演出やナレーションが小さく鳴っている。少しだけソファーの肘掛けだけが見える。そこに細い老人の手が置かれている。司会者の軽快な進行とは裏腹に、指が苛立っているように肘掛けを小突いている。手の甲には血管が浮き出て、肌は黒に近い褐色。人でないなにかに見える。班目はカウンターから遠ざかる。
 ガラス窓に入浴所の道筋を示した紙を発見する。
 「入浴、九時から十一半、十六時から二十一時也」。
 奥の戸を引く。外の明かりが照らす、ほのかに明るい廊下を歩く。その間、誰にも会わない。湯谷温泉内に駐車してから、誰ともすれ違わない。カウンターの褐色の手以外。声を掛けるべきだった。しかし足が止まらない。
 男湯の暖簾の中に入る。無人。勝手に電気を付ける。浴槽の蓋が閉まっているのをガラス戸から確認する。そのまま柱時計がかちりかちりと館内に鳴る老舗旅館を後にする。
 灰色の温泉街を心細くなりながら歩く。「朱雀」のあのカウンターには湯谷温泉の温泉専用パンフレットが置かれていた。日帰り入浴可、不可の旅館案内、入浴できる時間帯、各旅館の地図などが記されているパンフレット。今班目が欲しい情報が全て掲載されている。その有り難い存在に班目は一切気がつかない。


   湯谷温泉のあの娘Ⅱ


 初めてこの地を訪れたのは二年前。当時は地方の新聞社に勤務する。湯谷温泉には取材で二度訪れる。他各所を巡る「奥三河探検ツアー」に混じり、バスツアーの体験を記事にする。その後、都市Mの芸大生のアート作品を街が融合するとして再度ペンを握る。私生活で足を運んだのは初めてだ。
 百八十近い上司の背中。ロサンゼルスで未成年と性交したと得意げに話す地元の中年男性陣。出来上がった記事は散々なものばかり。道を彷徨う程、新聞記者時代の記憶が蘇る。
 赤い橋「浮き石つり橋」は霧が密集している。橋から覗く谷間の西も東も、白いベールに包まれている。飛鷹が巨大な岩肌の上空を滑る。遙か足下に流れる漂流がうねる。
 旅館が並ぶメインの街道に出る。小さく控えめな旅館の看板が道の奥までこちらに向く。手前の旅館にする。予約制なら諦める。近くの健康ランド「ゆーゆーありいな」で入浴を済ます。そこが一杯ならアパートに帰る。そう決める。
 「旅館安ら木」。旅館の名前が正方形の中に筆文字で収められている。
 二年前の取材で、ほとんどの旅館にお邪魔していた。好感が持てるところと持てないところがあった。何が悪いわけでなく、自身の好み。「安ら木」は庶民的で入りやすく、良い旅館だった。取材に応じてくれた従業員のおばさんは元気だろうか。
 「安ら木」は谷の崖に建っていた。石段を上がると、旅館名が入った暖簾が掛かった引き戸がある。旅館内は電気が照っている。電気が付けられているだけで安心する。お店は入りづらい電気と入りやすい電気がある。ここは入りやすい電気だ、と班目。薄暗い所に居続けたせいか、照明に目がやられる。
 紙パックの自動販売機が急にハム音を立てる。床は赤絨毯。右手の和室に「休憩所」「お茶を入れてあります、ご自由にどうぞ」の紙がある。部屋を覗く。机の上に電気ポットが見える。レジや金回りを経由せず部屋に入れるようになっている。二年前には気がつかなかった。町にない心配りを見られただけで来て良かったと思えた。
 階段を下りる。下の階に照らされた明かりを目指す。小さなロビーに人がいる。緑色Tシャツを着た黒い髪をした中年女性はこちらを見上げると、カウンターに入っていった。あの取材の女性に似たおばさんだ。
 何十分かぶりの人影を見て一瞬たじろぐ。異端探検の気分を変える。健康ランドより旅館の温泉に入りたい。週六日の勤務中、温泉のことを考え続けたのだ。そのためには予約制かどうか確かめねばならない。
「いらっしゃいませ」
「日帰り入浴できますか」
「八百円です」
 予約制ではなさそうだ。
 お金を払う。財布をリュックに戻そうとする。
 女性店員が声をかけた。
「ロッカーがないんですけど、貴重品を預かりましょうか」
「そうですね、お願いします」
「旅館を出る際は、番号札を出してください」
 財布を店員に渡した。「五番」とボールペンで書かれた、よれよれの橙色の紙をもらった。
「温泉の場所ってわかりますか」
「いえ」
「このまま階段を降りていくと、ベランダに行きます。そこを曲がって歩くとトイレがありますので、その隣に旅館を出る扉から一度外に出ます。少し進むと左手に下がる階段がありますので、そこを降りていただいて、男湯、女湯と書かれた暖簾がぶらさがった脱衣所がありますので、そちらで入浴ができます。一応看板が出ていますけど、もしわからなかったらまた聞きに来てくださいね。ごゆっくりどうぞ」
 財布をスーパーで魚を入れるような小さなビニール袋にくるんだ。店員は奥の部屋に消えていった。
 言われたことを頼りに旅館を進む。檜で作った机や椅子が並んだ食堂に出る。ベランダに男二人女一人が何か食べている。この旅館には人がいる。
 通路を右折すると、旅館を出る引き戸がある。路地に出ると、追いかけっこをしている子供二人と、それを厳格な顔で見張る若い母親がいる。
 丘の上に民家がある。壊れた犬小屋。積み重ねられた鉢植え。上半身と下半身がばらばらになった「七人の小人」の陶器。家の端に捨てられているごみが入浴客から見える。
 「入浴所」の看板が岩肌に付いている。四隅が錆び付き、左端が折れている。矢印の先の狭くて暗い石段を下りる。左に掛けられた男湯の暖簾を発見する。

 班目の頭の中は女性店員のことで一杯だった。財布を返してもらうため、再びあの店員と立ち会わなければならない。
 カウンターに居たのは中年女性ではない。パーマを当てた小太りの五十近くの二年前取材した女性ではない。班目と近しい年齢の女。顔元ほどで収まる黒い髪と端の尖った目をした、活気づいた声と顔立ちと、親しい間柄のように笑いかけてくれる対応をしてくれた、同じぐらいの若い女。


   湯谷温泉のあの娘Ⅲ


 待ちに待った温泉。
 更衣室と浴室を仕切るドアがない。外と男湯とのドアもない。外からは丸見えだ。服を入れるための薄桃色のかごが棚の上に並ぶ。自然岩の大きな穴ぼこに湯が溜まる。囲いの外からは、霧に覆われた谷や浮き石吊り橋などが視界に入る。
 班目が立ち上がり、やせ細った上半身を外に晒す。轟々と空全体を怒らせながら暗雲が膨張している。風が強いわけでもないのに、入り口の暖簾が乱舞していた。湯に浸かる位置が悪いと、視界の端でちらついて、人が入ってきたのかと何度も神経がぴくりと過剰反応するのだった。従業員が、たとえば先ほどの受付の店員がやってきて、入浴中の自分などお構いなしに風呂掃除をしだすのではと勘ぐったりするのだった。
 あの店員の容姿が誰かに当てはめられそうで、幾つか似た顔を探る。
 石川秀美が浮かぶ。1982年にデビューした昭和のアイドル。西郷秀樹の「HIDEKIの妹オーディション」の二回目で優勝した石川秀美薬丸裕英と結婚して、名前が薬丸秀美になった石川秀美。この前録画したテレ東特別番組「初代昭和のアイドル名場面集」にて、青いワンピース姿で「HEYミスターポリスマン」を歌っていた石川秀美。歌い終わった後も目を潤わせ、指でピストルを形取り、顔を力強くカメラに向けたまま、堀ちえみにフェードアウトされる石川秀美
 石川秀美似の女性店員と直面する。数分後に。余計な思考が班目を落ち着かなくさせる。
 湯から出ることにした。タオルを絞って、身体を拭く。ドライヤーがない。しっかりと髪の水分を取る。薄ピンクのかごは洗濯物入れのよう。下着と濡れたタオルを持参したビニール袋に入れる。服を着る。
 庭を経由。丘の家の住人と思わしき親子はいない。旅館へ。通路途中のトイレで小水を済ませる。鏡を前にする。高校時代の眼鏡をかけた、目の窪んだ男と目が合う。笑いかけると男も笑う。
 カウンターは誰もいない。机の金メッキのベルは噛んできそう。触るのをためらう。ベルを鳴らす。奥から女性が返事する。声の主はあの店員だ。勤務時間は朝だけでない。フルタイム。
 店員がカウンターに立つ。
「お願いします」
 番号札を渡す。店員は再び奥へと去る。
 柱時計が堅実な音を立てている。壁のポスターが並ぶ。S市の夏祭り、山が燃えているイラスト火の用心。スジャータのソフトクリームがバニラ、チョコ、抹茶、ストロベリー。
 店員がビニールに包んだ財布を抱える。ビニールは向こうで回収される。財布だけ受け取る。
「すいません」
 夏のお祭り一緒に行きませんか。
「アイスクリームください。味はストロベリー」
 ストロベリーのアイスクリームお願いします。店員が奥の事務所に呼びかける。
 注文が来るまで二人きりになる。
 店員は横を向き、涼しい顔をする。唇を横にきゅっと結ぶ。少し口角を上げ、緑色のTシャツを着た仲間がソフトクリームを持ってくるのを待っているかのよう。
 「話しかけてもらえる」。願望を捨てる。「雨降りそうですね」。班目から口を開く頃には、隣の重たい扉が開く。カウンターの店員より少し下ぐらいの二十歳ほどの小柄で茶髪の女性店員。アイスクリームを片手に持って、注文の品を差し出してくれる。それを受け取る。背中を丸めて、いそいそと旅館を去る。
 旅館通りには人の姿が現れるようになる。足早に温泉街道を駆け抜ける。
 広場を見つける。コンクリートの楕円に座る。リュックを下ろす。小物のファスナーを開けて、仕事用のメモ帳とペンを取って書き出す。
(せめて、自分が興味を持った相手には、自分から話せるぐらいの準備を常に持ち歩くべきだった。不意打ちではあるまいか。しかし再び財布を受け取るまでの間に、人と話すスイッチを入れておくだけの猶予はあった。愉快な方の班目喜吉がピエロの格好をしてお尻のちっちゃなまんまる尻尾をふりふりさせながら、迫りに乗ったところまでは行ったのに、スイッチが入ってくれなかった。舞台に上がれなかったのだ。本当に悔しい。普段人のことなんかどうでもいい、というよりあまり関わらなくても事が過ぎ去りすぎるのでそうしてきた怠慢(顔面含め)が、己に罰として返ってきたのだ。普段からしっかりしていれば、あの娘に自分から話しかけることもできたはずなのだ。愛想の良いあの娘に、世の終わりのような面をして、恨みが募った顔をして突っ立っていた自分が恥ずかしい。彼女がカウンターから身を乗り出すのをやめて、事務所の方に身体に向けた時、まだ勝機はあったのに、自分の中でなにかがぷつりと弾け、そんな些細なことでタイミングを失った気分になったのだ。またこの地に来ればいいではないか。いや、もうきっと来ない。温泉街の看板娘にちょっかいを出すなんて心許ないから。旅での人との触れ合いを、ささやかな会話を望んでいただけだから。二回目のそれは旅ではなく、自分の中で女を作りに行っている行為として判定されるから。それは自分が望んでいたものとは別だから)
 雨が降る。荒れると行けないと、メモとペンを片付ける。文字は七枚に渉る。枚数の多さに驚く。
 車に乗り、駐車場から出る。百五十一号線のカーブ道に揺られる。デジタル時計は午後二時半を過ぎている。
 あの女性店員の顔を思い浮かべる。店員は石川秀美に似ていない。
「明日も仕事だ」
 大雨になるのでは。予感は外れる。K市に戻っても、天気は荒れない。雨雲が様子を見るように天井に長々と居座るだけだ。

 


   アメリカ白熱教室Ⅰ


「おい、班目」
 元々班目はレールの接続作業のために雇用されていた。一ヶ月が過ぎると、レールにキャップという黒いゴム製の固定具をつける作業に移行した。いつかは接続作業に配属されるものだと思いながら、二年間レールにキャップを打つ毎日を過ごした。
 周りに目もくれずに早く作業する。勢い余って、度の厚い眼鏡が直レールの束に落下しそうになったので、それを手で防いだ。
 ベテランの今野哲二が声をかける。
「班目」
「はい」
「四度も呼んだんだぜ。気づかないとはどういうことだ。作業にのめり込み過ぎるなよ」
「すみません」
「工場の仕事は作業に集中していればいいってもんじゃない。連絡事項をとることも、頭の片すみで残しておかないからこうなるんだ」
「頭の片隅、ハイ」
「レールが引っかかるところに置いてたぞ」
「ええっ」
「一回痛い目を見ないとわからんのか。俺が引っかけてやろうか。あっはっはっは」
 昼休みになる。一部の従業員は外出し、自宅へ、または駐車場に停車した自家用車で、一時間の休息を取りに行った。大半は鉄工所内の片隅のほんの小さな空間にある休憩所に集まり、全員で長机を囲むのだった。
 通路には人が溜まり、水道から出る水で手を流したり、トイレに列を作ったりしていた。班目もその二つが済むと、弁当にありついた。
 弁当を食べ終わると休憩所から去る。作業場に向かい、段ボール置き場から一枚拝借すると、部屋の隅の床に敷いて腰を下ろす。背中を丸めて、顔をひざに埋めて目を閉じた。所長やベテラン勢の世間話、鉄工所の現状などを盗み聞きしながら、鉄工所でないどこかの空間を彷徨っていた。


   アメリカ白熱教室Ⅱ


 午後六時半、班目退社。吐き出されるように、鉄工所から自転車で飛び出す。
 自転車は十六歳のときに両親に買ってもらった自転車を使う。十五年間雨風にさらされて、チェーンもロッドも錆びつき、漕げばキイキイと音が鳴り、ブレーキをかければ首を絞められた雌鶏のような金切り声を上げる。
 五月中旬の夜に染まりきらない崩れかけた夕日を受けて背中が熱い。大通りの国道の歩道を走行した。
 畑巣団地は三階建てだ。薄れた黄色のしょんべん色の蛍光灯が通路を照らしていた。駐車場には、「入居者車輌以外の駐車を禁ズ」と書かれた看板が有刺鉄線で柵に縛りつけられている。
 自転車を団地の隅の置き場に停めた。いつもその空間だけ溝や錆臭い。
 手前の壁にもたれている、二台の朽ちた自転車のせいだと班目は思う。誰も匂いの元を片づけない。
 ある日のことだ。不意に足が当たってしまい、もしくは班目が来るのを待っていたかのように、自転車二台が地面に倒れた。班目は忌々しそうにそれに触った。自転車を立たせた。それからしばらく手に吐瀉と排水溝の匂いがまとわりついた。石けんで洗うが、うっすら匂いが残るのだ。
 急に倒れたりしないだろうか。早く片付けてくれないだろうか。誰か申し立ててくれないだろうか。びくびくしながら、足早にその場を去った。
 二○三号室に着くと、靴を脱いで外向きに直した。大学時代からのクセだ。
 十年靴を靴箱に片付ける癖を付けよ。十年物事を続ける癖が身につく。新聞の記事で読んだ知識を実践したままだ。
 リュックサックを床に置くと、ゆっくりと二つ折りにくたびれていった。外に干してあった布団を床に投げて、班目の身体が横に倒れた。
 あたりが完全に暗くなる頃には気力が幾らか戻った。釜揚げうどんをこしらえると、テレビをつけて録画しておいた「NHK名曲コンサート」を再生した。オープニングに「熱き心に」をひっさげて小林旭が登場した。
 その後ろで登場歌手が手拍子で参加する中で、ブラックスーツに身をまとった山本譲二がシンバルを鳴らすような動作をしていた。無意識に石川秀美を探す。岩崎宏美が出演していることそれ以上は望まなかった。石川秀美はメディアには滅多に現れないことを班目は理解していた。
 班目は押し入れの中で昨日の湯谷温泉の出来事を思い返していた。カウンターの店員、あの娘の入浴所の場所を説明する姿を、台に乗りだして、方向に指を向けて喋っているときの表情を間ブラの裏に再現させた。それが上手くいくと、湯谷温泉街道を彷徨い歩いて蓄積された暗いものが、ぱっと吹き飛んだあの感覚を呼び起こした。
 暗闇の中でぼんやり想像に浸っていると、正面の段ボールが置かれているはずの場所に、班目喜吉が現れた。同じ姿勢の自分自身と向き合った。
 意気地なし。
 時間が気になりだした。襖を開けた。地上の様子を偵察する天使の気分だ。押し入れからでも時計が見えるように方角を調節されており、午後十一時を指していた。一時間後には就寝しなければならなかった。班目は睡眠時間が六時間半以上とらないと途端に能力が低下し、職場のお荷物になるということを経験上理解していた。
 押し入れからよろよろと身体を出して、部屋の中に戻った。蛍光灯のスイッチを入れて明るくした。静かな部屋が寂しく感じ出して、何気なくテレビのスイッチを入れた。
「先に言わせてもらえば、俺はペテン師みたいなものなんだ」


   アメリカ白熱教室Ⅲ


 「アメリカ白熱教室、テーマ、意識の持ちようで変化が起こる第一回」と右上に小さくテロップが出ている
 短い髪に長身で百八十はありそうな日本人だった。四十後半あたりの中年の男だった。(講師)は英語で話していた。それを日本語訳したものがテロップで流れ、渋い声の吹き替えがつけられていた。
 緑色のジャケットにマスタードイエローのネクタイ。何かオレンジ色の糸で文字が刺繍されているが、小さくて読めなかった。グレーのズボンにアディダスのジョギングシューズという、アメリカを意識した格好だった。
「君が本当に信頼できる友人や恋人を欲するならば、幾つかの自己啓発書を手に取ったことがあるはずだ。相手の目を見て話す、人に関心を持て、聞き上手になれ、自分のダメな部分をさらけ出せ、自分に自信を持てと」
「NHK?」
「君ならそんなこと熟知していることだろう。しかしそれだけでは人と付き合うとなんていうことはできない。そのげ」
 リモコンの適当なチャンネルボタンを押す。(講師)の声が部屋から消える。幾らかチャンネルを切り替え、あの番組がNHKで流れていることが分かる。
 (講師)の顔がパラソニック二十インチの液晶画面に戻る。
 (講師)という男からカメラが外れ、受講者が映し出された。腕組みをして睨みつけるスキンヘッドの黒人、革のコートに白いシャツ姿に眼鏡をかけた青年、次に夫婦と思わしき年のいった男女。
 どの生徒も(講師)の言うことに首を傾げたり、あくびをしたり、眉を上げて睨みつけたりしていた。メディカルコミュニケーターという肩書きを持っていると(講師)が説明する。生徒も班目も顔をゆがめる。
「今日みなさんへの処方箋は、『俺と会話すること』。この教壇に立つ俺と。俺は俳優をやっていた。数々の著名人との交流がある。ジョン・トラボルタデミ・ムーアマイケルムーア。彼らには実力があり、運気がある。彼らと週一度食事をしている。それよりも長いこと期間空くことも、うん、食事はしてるんだよ。彼らと対話してきた俺と会話をすれば、それが運気を分けることができる。君にもいい影響をもたらすはずだ」
 班目は夢心地になった。口をぼんやり開け、口の中に涎が溜まっていった。班目の今抱いた疑問に答えるかのように、夫婦風の女性に何かを尋ねた男性が首を振った。なにかを否定するかのような動きだった。
 一人のダークブルーのシャツを着た、黒人の青年がバッグにノートや筆記道具を詰め込んで席を立ち、後ろの扉から出ていった。
「この時間、俺は君と人間関係を築きます。俺は君の目を見ます。君も俺の目を見てほしい。俺は今年の八月何日かに五十二歳になる。年が近い人ならば、同僚として、年が離れていれば、教師として。君のしっくりくる設定を俺につけてくれればいい。スターバックスの店員なり、キングバーガーの店員なり、君の勤める大学やアルバイト先の清掃員なり、ビンカンボックスを漁る浮浪者なり、いくらでも好きなように」
 時計は十一時五十分を指していた。寝る時間が近づいているのを確認した。テレビを消したかったがそのまま班目は見続けた。
「俺は君に質問をする。何気ないやり取り、会話のキャッチボールをしたいと思っている。意味はどこにもあらず、お互い楽しいと思える時間になることを俺は願っているよ。今から君に発する問いを、声で答えるなり心の中で唱えるなり、それは君の好きにしてくれ。今日はこの講義にテレビクルーがカメラを回しているということで、俺はこの講義を六年間やってきたが、カメラが入ったのは初めてで、正直緊張しているよ。母国日本にも放送されるということで、とても誇らしい気分でここに立っている。そちらにもコメントを向けるなら、テレビを見ているあなた、不安がることはありません。君も俺のカウンセリングを受けることができるわけです。そうです。その三十二ピース入ったドーナツバケットを置いて、手に着いた油をなめとってからでも結構ですよ」
 軽い冗談を言った気がしたが、生徒も、テレビスタッフも、(講師)自身もなんの表情の変化もなく、誰も笑わないので、自分の耳が、感覚がいかれたのかと班目は思った。
「では始めましょう。二カメが正面。私の顔が映っていますか。オーケー」
 (講師)は楽しげに眉を吊り上げ、宴でも始めようといわんばかりに、手をこすり合わせた。
「あなたは今日、朝起きて現在に至るまで、楽しかったですか。それとも、辛かったですか」
 班目は(講師)の膨れ上がっていく微笑をただひたすら見ていた。一人一人に目線を合わせた。カメラが(講師)に、しらけた顔をしている生徒に、また元に戻り、今度は別の同じような顔をしている生徒に、行ったり来たりをくりかえした。(講師)が真ん中の生徒に行き着いたぐらいのところでいきなり吹きだして、その時間が終了した。
「先生はこれで何万というドルを稼いでいます」
 白人青年が跳びかかる首をひねって、今にも飛びかかりそうだった。班目の心臓がどきどきした。
「もう一つだけ、心のトレーニングを、日々暮らすための意識の持ちようを、君に伝授してこの講義を終わろう。頭の中で常に鐘を鳴らすことだ。ゴーンゴーンと。他の人と違い、人との交流がない人ほど、余計なことを考えて、処理能力を遅らせてしまっている。鐘を常に鳴らし、人が近くにいる限り鳴らしていれば、よけいなことを考えずに済むようになる。同じ歩幅で歩くことができる。余計なことを考えて自分を見つめるような盲目な状態になりにくく、まわりを見る目ができてくる。いろんなことに気づくことが増えてくる。特に対人関係に有効なメンタルトレーニングです。人が近づくたびに、怖いと思ったら、鐘を鳴らすんだ。怖ければ怖いほど、激しく。大きな音で。穏やかな君の表情を見れば、人も自然と寄ってくるようになるはずだ。これで俺の講義は終わりにします。さて君は今俺が喋ったことを明日にでも実行するかい。しないだろうな。こんな馬鹿げたことをするノリすらないから、現状があるのだから。ではまたこの時間に。ありがとう。サンキュー」
 会場が散ったような拍手が鳴った。遠くを見るような目をしているドレッドヘアーの黒人、青いシャツを着た白人、すでに講義室から出かかっている四人組の女子生徒がカメラに映し出された。
「NHKも物騒なもの流してるな」
 テレビを消した。時計が0時を指すと布団に潜る。


   アメリカ白熱教室Ⅴ


 翌日、鉄工所で作業をしている班目は、額に脂汗を浮かばせていた。ひどく工場内が静かに感じて気味が悪かった。目の前のものがクリアに見えた。見えるもの、聞こえるものが、ちくちくと刺さる感じがして、集中できていないときの鉄工所は、人がいるのにいないかのようだった。
 ふと昨日聞いたことを思い出した。頭の中の鐘を鳴らした。ゴーンゴーンと鈍い鈍器を叩く音が頭の中に、鉄工所の中に響き渡った。
 目の前が濁って歪んでしまえ。
 念じながら鐘を鳴らす。すると、自分自身がそこにいないかのような錯覚に陥る。
 アッ。班目はあることを思い付きそれを実行しようと持ち場を離れた。
「何をしているんだ」
 今野指導員だった。
「チューブが置かれていたので、先に片づけたほうがいいかと思いまして」
「先にか。うーん」
「余計なことをしたかもしれません。すいません」
「いや。確かにそうしたほうが効率がいいかもしれん。いいよ。これで」
「ありがとうございます」
「集中することが作業じゃないからな。それがわかってくれるだけでいいんだ」
「ハイッ」
 班目は震えた。うまくいった。人と会話している感覚がした。壁に寄せられた狭い作業場所、一人で身体を震わせていた。
 いつも人と話しているときに感じていた違和感や、ずれが感じなかった。あの(講師)の言うところの、町の人が歩く歩幅というやつだ。それは今までたまにしか感じることができない、人とのつながりだ。
 これを常に装備しておけばどうだろう。自分は暗く重たい孤独に悩まされずに済むのではないか。人と同じように生きられるのではないか。このまま今野指導員と一日バスツアーにいける気さえした。長年連絡を取っていなかった昔の同級生にも電話をかけてみよう。今なら関係を取り戻せるかもしれない。
 話せる自分。明るい自分。前向きな人生。これは正しい感覚だ。
 ゴーン、ゴーン。
 勤務中、頭の中で鐘を鳴らし続ける。鐘を鳴らしていると、次から次に楽しいことが思いついた。鐘の音は眠っていた神経を刺激する。簡単に楽しい気分になれた。
 午後三時半。休憩の合図「ラデッキー行進曲」がスピーカーから音割れしながら鉄工所内に鳴り響く。
 一番手で休憩所に直行する従業員の杉浦の手により、鉄工所のあらゆる照明が消される。機械の置かれていない長方形の窓からは、熱光線のような西日が溢れる。班目が休憩所に戻るときに西日越しに作業所を覗く。三時半で勤務が終了する従業員が黒い影と化し、わらわらと蠢いている。
 頭の中の鐘を鳴らす。意識の持ちようを働かせる。波長のチューニングを調節する。これまで他人だと思っていた従業員が仲間に思える。
 仕事仲間という言葉の意味を三十一歳で初めて知る。


完全なる暗闇Ⅲ


 班目は想像上で鳥になる。アパートの押し入れから飛び出し、上空へとひれをなびかせる。何層にも重なる雨雲を数十秒潜る。雨露や灰色の雲が身体に絡みつく。層を超えると、雲の上に、大きな青い月の正面に現れる。雲のグラウンドは、青い月光に照らされ、クリスタルのように輝いた。
 鳥はやめた。空を漂うから鳥になる。それでは自分の頭が固いような気がする。空に浮かばなさそうなものにする。なす。蹴鞠。ナゲット。お墓。お墓にする。月と雲の高速道路にびゅーんと飛ばす。対向車線に赤と緑のライトが光る航空機。黄色い標識に「風船注意」「鳥注意」「仏さん注意」。雲の連続する高架橋に浮いてきた仏さんをお墓でびゅーん。

 

   意識の持ちようⅠ


 この一週間、あまり疲れを感じずに終わる。ピークにも関わらず。それも「頭の鐘を鳴らす」という「意識の持ちよう」による効力だと実感する。
 第二回のアメリカ白熱教室が待ち遠しかった。コミュニケーターというフレーズは伊達ではない。月曜日まで待てなかった。
 それは土曜日の夜に放送される。時間帯は同じ。
 チャンネルを回して良かった。危うく麦茶を飲んで眠るところだった。
「今回の意識の持ちようは、硫酸で顔を溶かすといい」
 変な間を作っている(講師)の姿を、班目は肘をかけながら見ていた。
「実際のものじゃなくて、頭の中の硫酸で顔を溶かすんだ。人は常に自分の顔というものが思い浮かんでいる。今自分の顔がどんな顔をしているのか、 実際より下の顔にすることで、むしろ造形をなくしてしまうといい。ぐちゃぐちゃに。跡形もなく。目玉もなくなる。君の顔から放つレーザービームが消えて、相手の人は強い視線を感じることなく、話しやすい雰囲気ができる。口も、鼻も、濃いのがコンプレックスなら髭も、顔にコンプレックスがある人間なら、硫酸で溶かしてしまえば、負い目はなくなる。相手は雨上がりの土砂を見ているだけにしか感じないのだから。あなたはもしそこのテーブルに置かれたコップが話しかけてきたら、緊張するだろうか。コップでなければ、削りかすでも、耳垢でもいい。人が話しにくいと思うのは、人の形をしているからであって、自分と同じ土俵に立っているからであって、年齢や学歴、容姿や声のでかさがあるのからなのであって、土砂であるならば、なんの変わりもしない。ピアノの発表会などで緊張する子供に、観客をかぼちゃだと思いなさいというものがあるが、それを己に当てはめたものだ。自分が人間であるから、人間として生きようとする。顔がどろどろの土砂であるなら、人間としても道徳や責務から解放される」
 生徒の態度が鼻につく。
 うさんくさそうに睨みつけるデイヴィッドボウイ似の金髪坊主の青年、後ろの暗がりでこそこそ(講師)を盗み見て、どうやったらあいつを二度と教壇に立てなくさせられるか会話をしていそうな下品な笑みを浮かべている四人組。左側出口付近の席で机に突っ伏して完全に眠りについている長身の女学生。
 試しにやってみる。顔を硫酸で溶かして潰す。土砂顔にする。その言葉を自分自身に入れ込む。言葉の響きを利用して、それを自分の顔面に照らし合わせる。頭の中にいる、居間にいる自分の顔が、赤くただれて、赤い泥を胸に膝に垂れ流す。さらに意識を強めた。右手を挙げて、身体を起こして、泥人間である自分を実際に動かす。
 自分の姿はどこにも在らず。八畳間にいるのは半袖と半ズボン姿の人の形をした泥柱だ。
「ひひひ、うまくいったゾ」
「今度の『意識の持ちよう』は紙が必要だ。そこに質問を書いてほしい」
 蛍光灯で照らされている講師の顔は青白く、目がぎらついてぷかぷか浮遊しているように見えた。
「君が選ぶべき対象は、今。今思った人、頭に浮かんだ人だ。誰でも構わない。思いついたことをぶつけるだけだと、側頭連合野という一部しか脳は働かない。考えてから喋ることで、脳の活性化につながり、ニューロン網というネットワーク神経が鍛錬されていく。質問ノートを書いているときにも、同じ効果を確認できた。脳に管を繋げて測定してな。実際、俺もその恩恵を受けている。今度君に見せるために質問ノートを持ってこよう。何百何十何冊目のノートがいいだろうか。あっはっは。最初はオードリー・ヘップバーン宛に書いていた。誰だっていいんだ。相手はいろいろ変えて書いているが、その特訓のおかげか、一つの趣向を聞きだせば、質問をいくつかひり出せるようになった。ある程度は。人間関係のトレーニングだというと馬鹿らしく聞こえるかもしれんが、君が毎日人と会わないような職業に就いたら、自分から休日人のいるところに行かない限り、どんどん会話する能力は衰えていくだろう。職業に就く就かない、人と顔を合わせているだけ、どちらにしても、機会がなければ自分の意志がなければ、話すこともおぼつかなくなる。これはそういう人のための応急処置だ。会話できるというのは自分は悪い人間ではないという証明程度にしか過ぎず、最低限の礼儀であり、仲良くなったり、それ以上の話をしたいのであれば、また別の方法が必要になる。質問は相手との沈黙の間を埋める程度で、距離は特別縮めることもない。だが、少しはとびっきりの質問が、君の本当に聞きたいと思える興味が湧いたら、自分から話しかけてみようかと思うだろう。そういう小さな進歩が積み重なれば、自然と苦にもならなくなってくることだろう。相手に対する興味も湧きやすくなる。興味なんて沸く努力をする必要なんて全く沸かなくなるよりかはましだろう。とびっきりの良い質問を送ってあげると、その人も驚くだろうし、話が弾めば、君のことが忘れられなくなるんだよ。そういうことが、興味のない相手にも、誰でも、親しい関係を築けるようにになるんだよ。時間がないので最後少し早口になりましたが、どうかこのトレーニングをやってみて欲しい。センキュー。今日もありがとう」
 班目は電気を消す。暗闇マニアの班目には満足度の低いグレイになる。押し入れ用とは別の就寝用のアイマスクが本棚の近くの床に落ちている。取りに行く気力がない。密度の低い暗さに不安を感じながらストレッチをして体をほぐす。布団の中に入る。目を瞑る。
 質問する相手。その人物はすぐ決まる。


   意識の持ちようⅡ


 まただ。班目が応援するお笑いコンビ「あんちょくキング」がネタ番組ロケットボーイ」で勝ち抜けなかった。定番のネタ「メデューサ」で挑んだのだ。
 もっと後半たたみかけるようなネタが「あんちょくキング」にはあったのに。単独ライブで大ウケしたネタ「キャバレー」なら対戦相手の「怒りと悲しみ」に勝てたのに。
 「意識の持ちよう」を実践すれば良かったのに。泥柱で様子を見、頭の鐘でブレーキを掛け、チューニングを駆使した上でお客さんの懐に入っていけば良かったのに。


  意識の持ちようⅣ


●メジャーな意識(自分には合わなかった意識)●

  自分に自信を持つ、笑顔、相手の目を見て話す、
  明るくする、はきはきする、姿勢を正す、リラックスする、落ち着く…

●頂いた「意識の持ちよう」 マイナス人間にはマイナスを合わせることでプラスになる!●

  頭の鐘を鳴らす、顔に硫酸をかける、老人化、
  顔を皺だらけにする、その空間にいる誰よりも弱者になる、
  下を向く、視界を潰す、声を潰す、
  シラフでいない、人相の悪い汚い子供、宇宙飛行士の格好、
  この世に自分の居場所などないと自分にわからせる、
  魂は天井に跳ね返る空気に宿る、肉体はリモコンによる電磁波で作動する洞窟、
  頭の中をショートケーキやモンブラン、甘くておいしいものでいっぱいにする…

 最近、調子が良い。「意識の持ちよう」の効力だと確信する。押し入れにこもる習慣もなくなる。テレビを見るときも「意識の持ちよう」を働かせる。時間が少し鈍くなる。見えないものが見えるようになる。
 「意識の持ちよう」さえあれば傷つくことなく仕事を無事終えられる。周りの反応が違う。今野指導員。いつもは怖いアパートの背丈のある従業員の人。道ですれ違った女の人。
 湯谷温泉のあの娘とも。きっと。
 「意識の持ちよう」を知る以前の自分が恥ずかしい。
 ピークが過ぎたら日本海に行こう。旅館に予約を入れて、室内の木目の匂いを一杯吸おう。見知らぬ喫茶店の巨大ロールケーキを食べに行こう。ようやく自分も真人間になれたのだ。


   まともな人間


 仕事帰りにドラッグストア「Qすり」に寄る。かごにバス洗剤とシャンプーとリンスの詰め替え用を二セット。それらを入れると、レジに持っていく。
 三つのレジに三人の女性店員が立っていた。会計する客はおらず、かごに商品を入れて登場した班目を見つけると、真ん中の背の高い茶髪の店員が対応した。どことなく冷ややかな三人の態度に、班目は頭の中で鐘を突き、硫酸で顔を溶かすイメージを自分自身と重ね合わせた。「意識の持ちよう」の調節は好調だ。
 女性店員の存在感が徐々に遠ざかっていく。自分の肉体を肉体と認識し、少し落ち着きを取り戻すことができた。扱いやすい人間になれている確信がある。
 のろのろとかごをレジのカウンターに置く。鐘やら硫酸やらで意識を乱しているため、てきぱきと動くことができない。気が狂うほど長い時間に思える。今、自分が若い女性の前に立って、バス洗剤とシャンプーリンスというささやかな買い物をする事がとてつもなく困難な作業のように思えるのだった。
 茶髪がバーコードを通していった。右の黒い髪を後ろに束ね、前髪を分けた小柄な女性店員が、商品を袋に詰めようとした。
「袋は大丈夫です」
「なんですか」
 声が小さいことはよくあった。右側の店員に声をかけると、
 茶髪の店員がじっと見ている。視線がマイナスドライバーのように鋭く感じる。何かを探る目だ。
 肌色の作業服。鉄工所内で棒にレールをとりつけるだけの簡単な仕事をしているだけの人間。それを見透かされているように感じる。気の遣う必要のない人間を見るときの目に感じる。
 結果はまだ分からない。最後まで諦めない。このドラッグストアに誇りを保ちながら無事に店を出られることを切に願う。
 頭の中の鐘を鳴らす。硫酸はやめる。あのときの今野指導員の成果を上げた、鐘を鳴らす意識に賭ける。
「袋は大丈夫です」
「しるしだけつけておきます。三五六円のお釣りです」
 小銭を受け取る。もたもたしながら財布に入れる。
 両端の店員はどこかきょろきょろと店内の遠くを見やる。正面の茶髪の店員はしゃがみこんで、カウンター下の引き戸の中を整理し始める。
「ありがとうございます」
 言ったのは客の班目だ。背中を丸めて頭を下げる。
 左側の顔立ちも姿も虚ろにしか映らない女性店員は、ずっと班目を見る。その目は不審者を見るようなものだと受け取れてしまう。
 そのまま、袋を持って、店の出口に歩き続ける。三人の女性店員は、ありがとうございましたという言葉をかけない。班目がそこに存在していないかのようだ。元々職場で、外で存在を消すための意識の持ちようであり、効力をいかんなく発揮したわけだが、始終白い目で見られていたことに静かに傷ついた。
 疑いの目。汚いものを見るような目。薬物中毒者を見ているかのような目で見ている。どうかしてしまった人間を見るときの目。班目はこの頭の鐘が原因だと思った。
 あの女たちにはわかるのだ。俺が頭の裏で小細工をしていることを。間違った意識を働かせていることを。自分がまともでないことを見抜いたのだ。間違った行為をしているから、まともな人間世界の常識外の振る舞いだから、彼女らは外れ者の自分を対応するわけにはいかないのだ。彼女らはまともな人間世界の常識に沿って今日を生き抜いてきたのだから。
 灰汁色の雲が支配した陰気な夕方だった。頬に当たる風は湿気っていた。班目は自転車を走らせた。暗い顔をしていた。自分は二度と人と打ち解けることはないのだとか、いろんなことが頭を支配し、嫌な気持ちになった。
 ひしめき合う民家や家の畑の草草とした匂い、角の家に建てられている謎の豚のスプレー缶の落書き。団地に越してから二年になるが、何度と見た帰り道に苦痛を感じ始めていた。班目の頭の中はもう鐘は鳴っていないし、今後二度と鳴らすことはなかった。
 自室に戻ると、電気をつけず、薄暗い中に倒れこんだ。そのまま脱ぎ捨てられた衣類みたいな姿勢のまま一時間が過ぎた。
 薄く目を開けていると、暗闇に溶け込んで輪郭しか見せない、机が、二十インチのパラソニックのテレビが、スチールラックが、捨てられずにいるスピーカーや湯たんぽ、電気あんまなどが入っているかごが、部屋のありとあらゆるものが瞼によって、音を立てて押しつぶされていくようだった。


   透明な時間Ⅰ


 日曜日の時刻が九時になる。開店したスーパー「ゲルマン」の自動ドアが開く。特売セールを目当てにする人々の塊が溶けていく。班目もそれに続く。
 店内の入り口に両脇に二人の店員が分かれている。いらっしゃいませと挨拶をかけてくれる。かごを手渡ししてくれる。
 一週間分の食料を溜めた。ヨーグルトの陳列棚からレジを様子見を済ますと、サービスカウンターの近くの一番レジへと仕掛けていった。
「いらっしゃいませね」
 六十近くの初老の胸には、うめみや、という名札が付けられていた。日曜日の午前中のみ存在する店員、というのは班目の統計上そう出ていた。班目はこの男がいるときだけ買い物をした。
 男の近くにいると酸っぱい匂いがした。下を向いたまま、値段を呪文のように唱えていた。
 身体を小刻みに揺らしながら、商品のバーコードをレジに通していった。呆けた様子だったが、商品がバーコードを通らずに、そのまま黄色の会計用のかごに入れてしまうようなことは一度もなかった。男のゆったりとした動作を班目はなんとなく見つめていた。
 後ろに並んでいたジャージ姿の体つきの大きな男の持ったかごには、たくさんのオレンジジュースのパックが入っていた。見ているだけでチャプチャプと音が聞こえてきそうだった。大きな男は、他のレジの列へと移動していった。
 他のレジの店員が日曜日の特売日に並んだ客を手際よくさばいていた。髪が長くて、隠れたところからぶつぶつが顔に吹き出ている学生らしき青年。白髪まじりの髪をピンで留めて団子になっている中年女性。背が高い細身の女性。
「3218円お願いしますね」
 緑色で表示されたレジの購入金額を確認して、お金を支払った。
「ありがとうございましたね」
 班目の調子の良し悪し、どの状態に訪れても梅宮のおじいちゃんは機械のように態度が変わらない。梅宮は軽く頭を下げた。
 班目は梅宮の接客が好きだった。


   透明な時間Ⅱ


 今日も梅宮のおじいちゃんがレジカウンター1を担当する。当然そのレジで買い物を済ませる。
 梅宮のおじいちゃんがバーコードをレジに認識させる。買い物済み用の黄色いかごにゆっくり並べていく。梅宮のおじいちゃんがよろよろと業務を進めている。ありがとうございましたね、とゆっくりお辞儀をする。


   透明な時間Ⅲ


 梅宮のおじいちゃんがいない。先週もいない。


   透明な時間Ⅳ


 梅宮のおじいちゃんレジカウンター1には別の店員。茶髪の四十代後半の女性がいる。どのレジを見ても梅宮のおじいちゃん姿はない。
 一週間分の食料が詰まった買い物かごをレジカウンター1に持って行った。隅っこで陰りのあるレジなのに、店員の女性の仕事が速い。
「3567円です」
「すいません。一万円で」
 渡した一万円札をひったくるように掴まれた。お金はレジの中に吸い込まれていった。
「お釣りです」
 ジャラジャラとそれを受け取る。班目は自分の後ろを確認した。客はいない。今は忙しいわけではなさそうだ。
「すいません」
「はい。なんですかー」
「ここにおじいさんの店員さんがいたと思うんですが。よくこのレジカウンターにいた人です。しばらく見ないなと思って」
「勤まらなかったんですよ。年だし。作業も遅いし。無給でいいならボランティアもあるけど、誰でも入れるわけでもないし。今厳しいから。すいません。お客さんが並んでいるんで。いらっしゃいませー」
 班目が気がつかないうちに後ろにはごつい男がレジに並んでいて、班目を睨んだ(ように感じた)。頭を下げて、レジから離れた。
 もたつきながら食料品をレジ袋に入れて、足早にスーパー「ゲルマン」を後にする。アパートには帰らず、レジ袋を持ったまま、遠回りして歩く。七月の頭で、日を浴びていると頭が少しくらくらする。道ばたに黒い筋がコンクリートにへばりついている。ミミズの死骸だ。地中の生き物が初夏の熱線を浴びて干涸らびている。
 今厳しいから。
 今厳しいから。
 厳しい必要があるのだ。厳しくない方がいいじゃないか。世の中が厳しくても、自分は適応できる。能力が自分にはある。そんな自信が店員から見え隠れする。がんばっている人間の自信
 でもいつかはあの女性店員も年を取る。病気になり退院し、社会に復帰する。以前の自分でなくなっている。
 マニュアルとは違うかも知れない。社会には適応していなかったかも知れない。だが班目は梅宮のおじいちゃんの接客が良いと思える。
 がんばらねば。
 自分が頑張らねば。
 あの女性店員より強くならねば。
 間違っていると主張できるようになれるように。
 自分も梅宮のおじいちゃんのように社会から排除されないように。
 一割引きの豚バラ肉が横になって、レジ袋の底に赤い汁が溜まる。家に帰る。四十分近く近所の路地や山道を歩いていた。服をスウェットに着替えして、真っ暗な押し入れにこもった。


   悪夢の鉄則


 班目は家に帰ると、袋からポッキーの箱を取り出して、しばらく貪った後、冷蔵庫に買ったものを陳列した。麺を取り出し、調理台に置いた。キャベツをスライスして、フライパンで調理して、焼きそばをこしらえた。それを無音の中で食べた。皿を流しに持っていって片づけた。布巾で机を拭いた。木目が水気にぬれてきらきら輝いた。
 学生時代に使っていた底が破けた布上の黒筆箱を段ボールから出してきて、芝紫柄のB鉛筆を取り出した。ノートを机の上に置いた。ノートはこのあいだ段ボールを片づけていた時に見つけた、キャンパスノートを出した。
 班目がそれをめくると、日記が描かれていた。入社一か月ぐらいの思いが綴られていたそれは、三ページ分埋まっていた。
 その隣のページには、班目が自作した替え歌が載せられていた。ホラー映画「エルム街の悪夢」の、夢に出てくる女の子の縄跳び唄だ。一、二、フレディがやってくる、三、四、ドアに鍵をかけて、五、六、十字架を握りしめ、七、八、しっかり目を覚まして、九、十、眠りにおちないように。
 入社半年で悩んでいた自分が作り変えた唄はこうだった。

  土日 楽しいことをする
  月曜 やりとり間違える
  火曜 自分を叱咤する
  水曜 仕事の顔探る
  木曜 スタート地点にやっと立つ
  金曜 仕事が終わってる
  暗い顔でずっといる
  仕事の顔でずっといる

 班目喜吉が仕事をするための「悪夢の鉄則」。仕事をしているときの素晴らしいあの感覚を忘れないようにノートに書き記したのだ。
 その隣のページには当時流行ったJ-PONの自作の替え歌があった。

  DON DON 噴出する どうしようもない自分
  あくびしたでしょ つまらないでしょ
  しゃべる明るさ しゃべる落ち着き
  虚無に帰依する あたしの道よ

  DO NITI 止まない 戦のリズム
  背中を向ける 悪い子は誰?
  日曜の夜 黒くなる日記
  あたしの気持ち文字止まりなの

  GAYA GAYA うるさい 頭の声
  心の電話 かけるか迷う
  人と話すの 間持たないでしょ
  部屋暗くして 自分見つめる

 そのページを破いてごみ箱に突っ込んだ。握りつぶされて団子状になった罫線紙が形を元に戻そうと、力なく音を立てていた。ノートは新品同様になった。
 班目は首を一度回して、机に向かった。
 質問は箇条書きにして、左脇に並べるように書くようにした。ページはまだあったし、贅沢に使うべきだと思った。
 社長宛に質問を書いていった。二年間過ごしてきて、社長について知っていることを思い出した。
 鉄工所の社長をしていること。仕事ができること。きれいな背の高い奥さんがいること。睡眠時間が三時間しかないこと。「あらびき団」を観ていること。車の後ろに釣り人と筆文字で書かれたステッカーが貼ってあること。
 そこに関連するワードを罫線から上段の空白に並べていった。社長、仕事ができる、週刊誌の安いヘアヌード写真みたいな面長の女、徹夜した人みたいなテンション、お笑い、釣り。それらのちょこちょこした汚く書いたワードを見ながら、質問を探っていった。
 天井を見上げる。しょぼしょぼした目を正面の適当なところにもっていく。遠い目をしながら作業に取り組む。三十分で一ページが文字で埋まる。
 状況が変わればここに書かれている二十五個の質問の全てが使えなくなる気がした。二日もすればノートから質問の死骸の腐臭がし出す。そんな気がする。
 冷蔵庫から飲みかけの野菜ジュースを出す。コップに全部注いで飲み干す。カラカラになった脳みその砂漠に水が敷かれる感じがする。英気を満たした脳が言う。「今やっていた作業は無意味」だと。この作業の停止を薦めるのだ。
 しかし気になる人への質問をまだ書いていない。書いてみないことには死臭がするかわからない。
 質問したい相手は湯谷温泉の女性店員だ。


   質問ノートⅠ


 班目はカーテンを開けて、窓から見える景色に浸ろうとした。六月中旬の天気は陰湿な雲が上空に張っていた。暗闇の底へと堕ちた日曜日午後三時は、一か月前の湯谷温泉のあの日に似た空だった。
 班目は押し入れの、いつも自分が閉じこもっている場所とは違う右側の戸を引いた。そこから段ボールを外に引きずり出して中を漁った。湯たんぽや使えなくなったスピーカーなどに埋もれて、古本屋やレコード屋で買った、大量の五十円のCDが散乱していた。
 その中から、石川秀美の「ペパーミント」を取り出した。裏に貼られた値札シールで、他のものより何倍もの値段がついていることがわかった。セールの中には高いものがたまに混ざっていて、気が付かずにレジに持っていってしまうことがあった。
 班目はあの娘の顔を忘れていた。石川秀美に似ていないことだけは覚えていた。ジャケットの石川秀美は左手で後頭部の髪をむしりながら、頭を傾げていた。
 班目はしばらく写真を眺めていた。石川秀美のぱっちりとした目に惹かれてその瞳の奥を覗いていると、二つの穴に空洞のような立体感が生まれて、ひゅっと心が撫でられたような感触がしてジャケットを離した。写真からあの女性店員の面影を呼び起こすことは困難で、やはり似ていないということが確認できた。
 CDを取り出して、中古の白いラジカセで取り込んだ。音楽を再生した。座布団の上に座り、机に向かった。次のページからあの娘への質問にした。
 鉛筆削りが見当たらず、カッターの刃を出して、それで削った。削りカスが散らばり、芯の欠片がノートの隅に挟まって、ゴミ箱に飛ぶように手で払った。ラジカセからは「ゆれて海岸ロードに走るバックミラーに映る、江の島さ」と歌っていた。
 一ページ埋まると、次第に胸の奥が苦しくなってきた。人恋しさを感じ始めた。身体全体がひんやりと冷たくなり、満たされない飢えのようなものがこみあげてきた。一つ質問を作ると、あの娘の声がするのだった。顔は記憶から抜けてしまったが、あの表情や声は今も心に残っていた。
 自分自身に噴出していた陰気が消えていったあの瞬間を忘れるわけがなかった。この作業に精神の危険性を感じたが、質問はあれこれと思いついて、手が止まらなかった。
 石川秀美はすでに歌うのをやめていた。何も作動していない状態で十五分経つと、ラジカセが自動で電源が消える仕組みだった。シュリリイィィィィィィィィィンという、フレディが襲いかかってくる時の、金属が擦れるような気味の悪い音と共に落ちるのだ。班目はあの音が嫌いだった。曲を聴きながらうたた寝をしてしまっても、重たくなった体を起こして急いで電源ボタンを切りに行っていた。気がつくとラジカセから発する青い光が点っていなかった。
 夜が来て部屋が真っ暗になった。まだ文字を書く気力があった。三ページ分書き上げると、班目は作業を止めた。それから両腕を身体に巻き付け、自分自身を強く締めた。そのまま俯いてじっとした。心が落ち着くまでそこにいた。十一時から何も食べていなかったが、頭がきりきりと熱を帯びていて、何も食べていなくとも平気だった。
 電気をつけて、自分がどんなことを書いたか振り返ろうとした。湯谷温泉のことや、個人的なこと。「意識の持ちよう」のこと。
 キッチンで釜揚げうどんをこしらえる。テーブルに置くと、部屋の電気を消す。真っ暗な部屋でうどんを食べる。
 暗闇の中で、卵でぬるぬるした讃岐うどんを麺つゆと絡ませて口に運んでいった。ネギや七味唐辛子の味がした。ずっと毎日食べていたいと思った。いつかは飽きが来るわけだが、それが信じられなかった。釜揚げうどんを美味しいと思えなくなる日が来ることが、不吉の象徴のようで怖くなった。班目はもう一度、自分をぎゅっと抱きしめた。
 班目は空になった皿をしばらく眺めていた。頭の中は質問ノートのことでいっぱいだった。少し涙ぐみそうになると、頭を振って、うぅん、うぅんと唸って湧きあがる気分をかき消した。泣くことは悪夢の鉄則「楽しいこと」に値する。明日に仕事ができなくなる。


   意識の持ちようⅢ


 午前中で八束完成させるのが理想。所長から目標を具体的に提示された。班目の最高記録は六束だった。今宵打開する方法を立てて、明日にでも達成したい。
 班目は鉄工所から帰宅すると、浴槽に向かい湯を溜めた。作業着をかごに放って、風呂に浸かった。かみそりを手にして鏡を確認しながら顔の毛を剃っていった。白熱灯に当てると両頬がこけていて、楕円形の不吉な影ができていた。
 チェック柄のパジャマ姿で居間に戻ると、作り置きしていたカレーとキムチを取り出した。それらを混ぜて夕食にすると、熱いコーヒーをコップに注いで、ちびちび口に含んでいった。神経が高ぶったまま、物を考えるということがろくにできない状態だった。
 仕事の反省点を探す。改善策を見いだそうとする。二○十一年の紅白歌合戦に出場した和田アキ子を見たくなる。ステージの真ん中に立つ凜とした立ち姿と、バリトンボイス。「あの鐘を鳴らすのはあなた」を歌い終わると、金色の紙吹雪がステージを舞って、力強い表情のズームアップで終わるのだ。
 テレビを付ける。水曜日の午後十時。アメリカ白熱教室の最新の講義が映る。第一回は月曜の午後十一時。第二回は土曜日の午後十一時半。この番組は放送日がぐちゃぐちゃだ。
 テーマは「抜け殻と化した肉体に新しい魂を宿らせよう」。それを見終わる。リモコンのボタンを操作する。一年前の紅白歌合戦の録画を再生する。女帝の歌声が八畳の居間を支配する。班目はすがるような視線を液晶画面に向けるが、心はどこかに飛んでいる。講義が頭に反復するのだ。


   意識の持ちようⅣ


 意識の持ちようは二種類存在するということ。「自分を消すための意識の持ちよう」と「自分が在るための意識の持ちよう」。そのバランスを両立させることである程度の慣れない環境でも、肉体が宙ぶらりんになるような不安定なあの感覚や、頭が真っ白になって立ち尽くしたりすることもなく、自分のペースを維持し続け、周りの反応に対応できるということ。
 前回提示された、「頭の中で硫酸を顔にかけて原型がなくなるまで溶かす」行為は自分を消し感覚だということ。今回紹介された意識の持ちようは、「老人化」という、その空っぽの肉体に「役」をいれるというものだ。老人になることで、譲り合いの気持ちができ、弱いものの気持ちを考えることができる。老人になりきっているため、自分自身が傷つかずに済むという効果の内容。
 あなたはあなたのまま、どうしようもないクソみたいなあなたのままで、世の中を渡れるプログラムを用意してあります。その心の檻にアームをつけてみたり、ウォシュレットをつけてみたり、暗いところでも鉄格子が蛍光に光るようにしたり。他にはない意識の持ちようを無料でかねそろえております。
 講師はカメラに向かって手振り交えて熱弁する。今回から講義室での生徒の出席率や態度や存在の有無など、周囲の様子がわからない。カメラが(講師)に固定されているのだ。
 三分十八秒のステージが終わる。テレビを消す。しばらく音のない部屋を眺めていた。腰を上げると、部屋の電気も消して押し入れへと入っていった。座布団の上にある外国製のアイマスクを手探りで見つけて、それを装着した。座布団に腰を下ろした。膝を抱えて座った。目をつぶっていた方が明るいため、暗闇の中で視線をあちこちに向けていた。意識の持ちようとは何なのか、自分なりに回答を出そうとした。
 人前に姿を現す、言葉を交わす、他人が関わる行為全て、出血に似ている。傷がひどい場合、応急処置が必要だった。さらしを巻いて止血するが、刺し傷箇所や出血量が多くて追いつかない場合、やむを得ず意識の持ちようで痛みだけでもごまかすのだ。
 意識の持ちようとは、応急処置にも満たない脳味噌へのペテン。
 (講師)の第一声を思い出す。
「先に言わせてもらえば、俺はペテン師みたいなものなんだ」
 それを考慮に入れた上での、一ヶ月体感した班目なりの回答だ。
 妄想の彼方へ避難して態勢を整えようとした。無意識の翼を羽ばたかせ、意識に休息を与えて、目覚めた感覚を残しながら夢の中にいるように仕向けていく。景色を全面に映し、自分が操作したいと思う肉体を想像し、魂をそこに憑依させるという手順で、あっちの世界の住民として手足を動かすことが可能になる。
 暗闇の中で人影が揺らいでいると部屋の明かりが戻る。質問ノートから一枚切り取り、どのような手順で八束製造が可能なのか、紙に書き出す。
 作業をいかに効率的にするかより、自身の中の甘い考えを抱いて作業の手間になっているのかも考慮した。「老人化」で通常の能力以上の成果が出せるかもしれないが、それが失敗したときのことを考えての作業だ。
 午前零時になると、日付が切り替わる。班目喜吉は三十二の齢を迎える。いつピークは終わりを迎えるのか、いつ土曜日が休日となるのか。
 一生この生活が続くのか。胎児のように身を縮ませる。布団の奥へ奥へと潜っていく。


   完全なる暗闇Ⅳ


 この日の夜は押し入れでなく居間でテレビを観て過ごす。
 次の日、心と肉体のバランスが一致しない。ちぐはぐな事ばかりする。ひどいミスをして今野さんに目を付けられる。悲惨な木曜日と化す。
 勤務中ずっと己を責める。押し入れにいなかったから、完全なる暗闇の中で自分と向き合わないから、R670とT32のステッカー位置を間違えて配送担当に迷惑を掛ける羽目になったのだ、と。


   湯谷温泉のあの娘Ⅴ


 鏡の中の班目は自身にニッコリ微笑む。次第に目が徐々に赤く腫れていく。自分に笑いかけてくれる人がいるのだと胸が熱くなる。フローリングの床に複数の水の玉ができる。自分は本当におかしくなってしまったのだと、頭を振り子のように揺らしながらほほえんだ。
 再び笑おうとするが上手くいかず疲労のせいだと、ベッドマットに寝そべり布団を力強く抱きしめ、今煮え上がっている肝臓に蔓延する怠惰な毒素から解放されるような感覚を待ち、幾らか気力を取り戻すと、再び鏡の前に立って表情を作ること、数十秒。
 班目は鏡に吠えた。
「さっきのかわいこちゃんをよこせよ。誰だお前。誰だ誰だ、何度でも言ってやるよ。一瞬自分が自分じゃないように見えたあの感覚をもう一度。他人はいかれた隣人のようにどうにもできないが、自分自身ぐらい、俺の思い通りにならないなんて許さない。妥協しないし許さない。お前が俺であることを認めない。斑目喜吉、お前を絶対に許さない」
 班目は今思いついたことをしようとした。班目が今まで禁止していたことだった。意識の持ちようを鏡の前で試してみた。目頭に皺を寄せること三十パーセント、顔を溶かすこと七十パーセント。意識の持ちようを用いた自分の顔はこれが初見だった。
 鏡の中の班目はぐにゃりぐにゃりと顔を歪ませていた。三十二歳の男の顔に浮かべるだけの皺が浮かんでいた。皺と皺が恋人のように寄せ合っていて、顔中で無数のキスが起こっていた。
 鉄工所にいるときの自分なのだ。叱られたり、レジの前に立ったりしてきた顔なのだ。知ってしまった以上、これで表に出られなかった。ちょうど良い顔を見つけなければならなかった。時計は午後十一時四十八分を指していた。あと十二分。意識の持ちようを起動させながら、幾らか見た目が苦しくない顔を開発に取り組んだ。
 布団に入ると、自分が朝が来ることを怖がっていることが班目にはわかったので、少しばかり瞼の裏を見つめて気を落ち着けることにした。
 自分の身体が米粒ほどに見えるようになってようやく全長が視界に収まるような大きな穴ぼこが開いていた。穴の底が見えないほどの、落ちたものを無に帰す、巨大な闇の巣窟だ。そこにいろんなものを放り込んでいく。高校生時代に女子からもらった手紙。パラソニックの二十インチの液晶テレビ。三〇一号室の部屋の鍵。自家用車。高校時代から使っている登山用のリュックサック。「極東花嫁」、「彼と彼女のソネット」、「HEYミスターポリスマン」、「恋の呪文はスキトトキメキトキス」などの曲が入ったソニーウォークマン。質問ノート。班目に破かれてノートから切り離された罰線紙が、一枚、一枚と、迂回しながらも確実に穴ぼこの底へと落ちていく。
 班目は真っ赤な絨毯のひかれた旅館のロビーにいる。緑色のTシャツを着たあの娘を眼前に、あの偏屈な人間関係を色濃く映したキャンパスノート、何の被害も被っていないそれがめくれ、質問が書かれたページにたどり着くと、頭の中に静かに鎮座するのだった。
(あの男湯から見えるあの山のように巨大な一枚岩には名前が付けられているのですか、土曜日この時間帯一時間入浴して誰も来ないような客数なのですか、ここで働いてどれぐらいですか、何歳ですか、学生の方ですか、湯谷温泉周辺の人ですか、名古屋の方ですか、I県の名物鳥である仏法僧は台風で鳳来寺山からは去ってしまったって聞いたのですが本当ですか、あなたの名前はなんというのですか)
 班目は三枚近く書かれたどのページの文章の質問も口にしなかった。
「ストロベリーください」
 あの娘の身体が正面から横に向くと、自分の身体から血が引いていく。手足の神経がなくなる。自分がここにいることが恥ずかしい行為のような気がしてくる。銃で撃たれるような戦慄が走り、ロビーに立っていられなくなった班目は、地上玄関へとつながる階段を上がると、意識が畑巣団地の三〇一号室の布団の中に帰る。
 今日の弁当はキャベツとツナの和え物と焼き肉のたれが染み渡った豚肉だ。昨日作って置いたそれを、保温性の効いた弁当の容器に収める。汁がこぼれないように固く蓋をする。班目はシンクの端に片手を添えながら、目を固く閉ざす。
 どうにもならない相手になど質問など書くんじゃなかった。夢の出来事の衝撃を受け止めるため、密閉容器の蓋に手を掛けたままの姿勢でしばらく固まる。


   キボウ


 このピークさえ過ぎれば。班目の心中はいつもこの意識が存在した。土日休暇さえあればなんでもできる。一ヶ月すれば夏休みがもらえる。遠出もできる。いつもの班目喜吉でなく、新しい自分として知らない土地を歩くのだ。
 乗り越えてみせるぞ。
 がんばるぞ。
 自分には「意識の持ちよう」がある。
 誰も持っていない自分だけの武器がある。


   土日Ⅰ


 班目が退職する。週六の最終日。土曜日の夕方の出来事だ。
 休憩所に平井堅の曲が流れている。誰かのスマートフォンからのものだ。
 奥の六人テーブルには、昼休みの外出組であるベテラン串田と久保田が座っている。話の内容は、近所のごみ捨て場所。地区の人間でない何者かがゴミ袋を捨てに来ている。中を開けてみるとその男の一家のあらゆる雑誌が詰められているという。
 背後の棚のテレビは、インタビューが流れている。俳優が喋ると、女優がけらけら笑う。女優が喋ると、俳優から反応がない。女優になびく態度を見せない。だから俳優はうちの県の親善大使に選ばれる。
 なびく態度をとらないことで、俳優は世の中に認められる。自分は違う。この世に自分はいないという感覚で過ごしてきた。だから自分はこの鉄工所にいられている。認められている。意識の持ちようのおかげで暮らしている。
 机に座り、水筒の冷たいお茶を飲む。社長が引き戸を開けて休憩所に現れる。
 社長は普段は事務所で仕事をする。鉄工所に現れるのは稀だった。狭い鉄工所内を俊敏に動いて、素早く従業員の間をすべり抜けていく。小さな身体を。子供のように。
 班目はそうはいかない。作業中の従業員は独特の圧を放つ。気を張らねば近寄れない。意識の持ちようはその圧を撥ねのける効力がある。鉄工所内では意識の持ちようが不可欠だ。少なくとも自分には。
 社長が話しかけたのは、所長でも、指導員の紺野でもない。班目に用があった。
「今日午前中にどれぐらいできた」
「六束ちょいです」
「へえ」
 社長の鼻から上を見た。真っ赤なゴーグルを付けているかのように腫れている。他の皮膚より一つ層が盛り上がっている。クモ膜下出血の前兆だと社長が誰かに話しているのを聞いたことがある。ストレスと自律神経の乱れ。多忙の賜物だと笑うのだ。
「製造業はその数ができなければ、あなたはいらないですってなるよ」
「やります。できるようにします」
 班目は悩みだした。意識の持ちようと仕事の効率化をどう両立させるか。
「結構遅い分類に入るんだよ。なんでだと思う」
「今自分がしているレール打ちは、みなさんよりも最も仕事量の少なく、簡単で、労働の少ない」
「なのにどうしてへとへとになっているんだ。声が嗄れているときがあるじゃないか」
「自分は居づらいんです。慣れないんです。違和感があって、ズレている感じがするんです」
「そんなことはないって思いこませろ。自分に自信を持て。集中しろ。それで仕事はこなしていける」
 それらの意識の持ちようは、どこかでつじつまが合わないような、もやもやした違和感を抱くのだった。それを感じる原因を追及して、どうしたらそれがなくなるかを考えて、自信を持つという方向に持っていくことも十分可能なはずだった。なぜそれをしてこなかったのか、自分の甘さを責めだした。
「仕事をするうえでなにを気を付けてる?」
「人間関係です」
 さらっと答えた。
「それ以外では」
「不良品を出さないようにとか」
 うーん。社長は黙ってしまう。
「みんなお前の態度が良くないって言っている」
「そんな」
「自分のことに夢中になりすぎてないか」
「気をつけます」
「この仕事が向いていないんじゃないか」
「あの、それなら退職で良いです」
「そうか。ここからは再就職に向けてがんばるんだな。こんなことずっと前の職場でもやって、新聞社も一年経たずに辞める。この鉄工所も二年足らず。同じこと繰り返して、三十一歳」
「頭の回路が人よりないんだと思います」
 近くの従業員の声が大きくなっていた。笑い声に無理を感じて、隣の面倒くさい会話で、自分たちの世界を邪魔されたくないと思い始めたのではないかと、班目は勘ぐった。たまに所長の声がかき消されて聞こえづらかった。眉間にしわが寄って目つきが悪くならないように気を付けた。
 パートの人たちが自分のことを気にするのもおかしかった。班目は誰ともコミュニケーションをとっていないから。義理がないのだ。もしかしたら、話したことはほとんどないが、自分のことを気に入ってくれているんじゃないか、存在を消してさほど邪魔にならない良い子だと思ってくれているんじゃないかという甘い考えがどこかにあったのだろうと班目は思った。やっぱりかと心の中で呟いたものの、人にこうされることにショックを受けていた。
 そういう状況でも、静かだった。頭が切り離されて、肉体だけがそこに在るような気がした。頭の中で音を鳴らしたくて仕方がなかった。
「お前、前に俺に言ったな。仕事ができるようにするから、私生活のことに口を挟まないでほしいって。もっと外に出たほうがいいとか、人と話したほうがいいとか、女の子と遊んだほうがいいとか。仕事と私生活は関係ない、そのことでいろいろ言われると、いろいろ考えてしまって作業に集中できなくなるって。自分は仕事をしにきてるって言ったよな」
「はい」
「仕事できてないじゃんか。人に指図するなら、仕事できなければだめだろ。自分の態度改めろよ」
 休憩時間残り五分を切ったようで、パートが席を立ちだした。外に出ていた従業員も戻ってきた。休憩所にいるのは社長と班目だけになった。
「お前さあ、仕事を何だと思ってんだ。こんな簡単なこともできないでどうするんだよ。大事にしてることは人間関係だって言ったけどさあ、お前、誰とも喋ろうとしないじゃないか。気配を消そう消そうとしてるだけじゃないか。言ってることとやってることがめちゃくちゃだよ。お前の何を信じたらいいんだ。お前を見ているとイライラする」
「すいません」
 三十二歳になりたての男の声が震える。鼻水が出て、垂らしたままでいる。作業着の上にドーム状の粘膜が付く。机の中央にはティッシュの箱が置かれている。社長はそれを差し出さない。班目もそれを自分が使って良いものに見えない。
「じゃあ仕事って何だと思う」
「仕事っていうのは、人間性をぐちゃぐちゃにされること。地獄を見ること」
「馬鹿。レールにキャップをつける。それがお前の仕事だよ」
「いやあの、気を引き締めるために唱えているんです。知らない人と一緒の空間にいて、上の人に叱られたりするわけで。精神的に持たせるために、そういう意味で言ったんです」
「いつ叱られたりひどい目に遭っても、仕事はこんなものだと、その『意識の持ちよう』で割り切れるということか。じゃあ今はどうだ。俺にとやかく言われて落ち込んでないっていうのか。何を言われても平気なのか」
「平気じゃないです」
「じゃあ意味ないじゃんかよ」
「はい」
「仕事を早くやることに意識を向けろよ。そのほうが怒られずに済むじゃんかよ」
「はい」
 午後五時十五分。工場内に勤務終了のチャイムが鳴るが、六時まで仕事は続く。社長が事務所へと帰る。
 奥にあるロッカーへと急ぐ。リュックサックからポケットティッシュを出す。鼻をかむ。鉄工所内へと足を進める。
「辞めるんだから、俺の話なんて関係ないか」
「いえ、社長と話せてよかったです。自分を改めたいです」
 所長も他の従業員はすでに仕事場に立つ。班目も急いで作業台の前で手袋をはめる。同じような何気ない顔をする。遠い目でキャップを設置し、スタンドを発射させる。
「ところで社長。前より僕、喋るようになったと気づきませんか。ろくに言葉が出なかった以前と比べて。社長と互角にやりあえるまではいきませんけど。今日はろれつが回っていたと思いませんか。『意識の持ちよう』ですよ」
 心の中でつぶやく。周りの従業員が顔を上げて班目を見る。作業を一旦止める者までいる。彼等はなぜ自分を見ているのだろう。キャップを付けているだけなのに。今、口に出したか?気のせいだ。心の中で言ったのだから。従業員たちの目は不審の色を放つ。そんなはずはない。確かに心の中で言ったのだ。口にしたか?わからない。自分の感覚すら信じられなくなったのか?
 退勤時。所長に精一杯のあいさつする。そっけない。帰りの社長の一言。
「でも二十五日までは居てくれ」
 あと三週間と二日。頭の中で計算する。


   土日Ⅱ


 実質意識の持ちようはどれも使えなくなった。作業が遅くなっているのは、この意識の持ちようが原因なのかもしれなかった。世の中的にやっていけるという作業の効率のよさそうなものを班目は自分の中に組み込もうとしていた。
「また新しい習慣を探さなきゃな」
 公園に入って、自転車を停めた。三角の屋根がついているベンチへと腰掛けた。班目は先月の給料明細の入った銀行の袋と鉛筆を取り出した。思いついたことを袋の余白に書き留めていった。
 自信をつければ、違和感と戦うこともなく、人とのずれも感じなくなるのではと思う。八束のペースを作るには、その感覚を馴染ませる必要がある。
 顔を上げる。辺りは日が暮れている。頭がクリア。何も入っていない状態だ。
 意識の持ちよう「老人化」を発動させる。目頭に一本、二本と皺なる切り込みを入れる。髪にハリがなくなり、白くなるイメージを憑依させる。次は硫酸で顔を溶かす。性格も年齢も分からないくらいに、雨上がりの土砂のような顔をさせる。はっはっはっはと興奮した犬のように呼吸を荒らげる※、「意識の持ちよう」を自分の中に入れ込もうとする。うまくいかない。頭がクリアのままでいる。
 「意識の持ちよう」が発動しない。
 自転車に乗って、公園を出た。頭がクリアなのは、ハイとも呼べる清々しい気分だ。車道中央線に沿って走っても平気な気がする。突然自転車のハンドルを切りたくなる衝動に駆られる。夜だというのに、昼間のような明るさを感じる。身体も軽やかだ。少し前方に自転車に乗った青年がいるというのに、大声で笑いそうになる。
 信号が赤になり、青年の少し後ろに止まるようにブレーキをかけたときに、どうしてブレーキをかけないといけないのだろうといらいらし始めた。青年が止まったから何となく自転車を停止させた。
 班目は自転車から降りた。ストッパーをかけて立てかけた。レンガで区切られた花壇に歩み寄った。班目はレンガを一つ手に持った。自分がレンガを手に持ちはじめた。その重さを全く感じなかった。子供をあやす感じで、一度、二度、宙に投げた。
 これを青年の頭にぶつけてみたらどうなるのだろうと思い始めた。思い始めると、本当に答えが分かなくなって、実行してみたくなった。
 そのままレンガを持ったまま動かずにいると、眼前には赤信号で待たされたうっぷんがたまった車らが急発進して、班目はその勢いに押されて倒れ込んだ。再びレンガを持って、何もせずに立っている。
 兄ちゃんなにやってんの、とジョギング中の中年男性に声をかけられる。男は肩にかけたオレンジのごわごわした肌触りの悪そうなタオルでおでこをぬぐう。
「魅力のない自分を見るのも、人前に出すのも、もう耐えられないし、どう振る舞ったら、その場にいていい人間になれるのかと俺は悩むんだ。自分から嫌な気配を出して、周りの気分を害していることが考えすぎかもしれないが、隣の人が定時に帰って、その場から立ち去ると、少し部屋が広くなって、居心地が良く感じると、人の存在感ってことごとく邪魔だなって思うんだよ。鉄工所から一人一人といなくなるごとに空気がいくらか軽くなり、どす黒い気配は被害妄想ではなく確実に存在しているし、暗い人間、挙動不審な人間は他の人たちの不安を掻き立て、すぐにいなくならなければいけないのだという意識が今でもあるし、どうしたって胸を張って生きることなんてお前何様だって思うし、それが三十二年間生きてきた班目喜吉の意識にぶっとい根を張っているんだよ」
「なんだって」
 中年男性から先に口を開いた。
「こんな格好をしてるが警察の人間なんだよ。あんた交番まで来てくれんかね。今の時間なら、あの交番に誰かいるだろうし。捕まえようってわけじゃない。俺はあんたに何の偏見も持ってないよ。ただ話を聞くだけ。遠くであんたのこと見てたけど、五分ぐらいそこにレンガを持ったまま動かないでいるんだよ。逮捕なんてしないから安心しな。兄ちゃん、ちょっと追い詰めたような顔をしてるよ」
 休暇中の中年の警察官は班目の頭の中にいる。
 班目はレンガを元の場所に置く。暗闇に包まれた自転車の元へと戻る。手が砂でざらつく。信号で止まっていた青年はすでにいない。遥か道の先にも見当たらない。
 この感覚は普通じゃない、しっかりするんだと自制する声が聞こえる。
 しっかりするんだ、元の、元のまともな自分に戻るんだと付け加えて、ひいひい笑う。脳髄のどこかから警告の汽笛のようなものが鳴る。
 心臓の波打つ鼓動が鼓膜の裏あたりから聞こえるようになった。そのエイトビートのリズムに合わせて、もうおしまいだ、もうおしまいだと、遊び感覚で言葉を付け加える。言うのを止めた後に心臓の鼓動がすると、その音が「もうおしまいだ」に聞こえる。
 自転車を停めて耳をふさいでみる。外の音は遮断できても、身体の中の音からは逃れられない。心臓がぼやく。「もうおしまいだ」と繰り返す。
 心臓を自分の身体から外してどこかに放り投げたくなる。しかし心臓がなければ血液が体中に巡らない。肉の鮮度が落ちる。活動できない。それでは生とは地獄ではないか。


   土日Ⅲ


 青谷湿原は街が誇るハイキングコースだ。班目がこの町に来たとき、一度だけ歩いたことがあった。駐車場に一台白い旧車が置かれていた。班目は自転車を誰にも見つからない場所に停めた。他の人もこの駐車場に来たときに、自分がそうしたように安心してほしいという、班目なりの配慮だった。
 月明かりが雲隠れしていても、遠くにある極小単位のかすかな街灯の明かりが差し込むだけで、そこは純粋な闇ではなくなるのだと、うっすら凹凸が見える遊歩道の景色を見て思った。池は柵で囲われていた。もう柵に囲まれた池にも顔をつけて泳げる気はさすがにしなくなっていた。
 班目はそれが嬉しかった。恐怖を恐怖と感じることが嬉しかった。もう一度、「老人化」を発動して、細い目をぱちぱち瞬かせてみたが、うまくできている自信がなかった。森の中では意識の持ちようなど必要なかった。そのままで外にいられるのはへんな気持ちだった。みんながこうだったら狂気めいていると思った。
 広がりに出た。ベンチやトイレ、看板、フェンスを自分の中で認識できるようにしっかりと見た。そこを通り過ぎる。左足でツタを踏みつけて固定し、右足で蹴り上げた。千切ることができなかったので、もう一度そうした。プチリと切れて、地面に残骸が横たわった。きちがいじみてると思った。
 湿原から山道に入った。先まで伸びる砂利の平坦な一本道を除けば、幹の太い木だらけだった。白い影を感じて右手方向を見ると、ロープで紙が吊されている。紙はてかてかして、防水用のシートの中に入れられているのが分かる。なにが書いてあるのかは見ないようにした。以前来た時に、なにかよくないことを書いてあってぞっとした記憶があった。
 カエルの鳴き声と不気味な鳥の鳴き声が鳴ったが、山の中は静かだった。班目は静かでも平気だった。今まで感じていた違和感はなくなっていた。違和感とは、セーフティーネットであり、それがないということは大きな失態を犯す前兆だった。班目の中では。
 広がりに出た。ベンチや山の構造のイラストが貼られた看板があった。この先にはいけないと思った。月明かりがなくなったわけでも、町の明るさが消えたからでもなかった。山が深くなっていた。二方向きに別れていて、奥をじっと見た。じっと見ずにはいられなかった。闇がこちらを見返している。足が動かなくなった。同じ闇なのにどうしてあの場所だけは深いのだろうと班目は思った。帰ることにするのだが、なにかが来るような音がする足音がして立ちすくんだ。
 どうしていいかわからずそのままでいると図太い中年男性の声がした。
「こんにちは」
 来た道から聞こえる。足音がこちらに近づいてくる。班目はハイではなくなっていた。
「おかしいなあ。確かに声がしたはずなんだけどなあ」
 落ち着け、と自分に言った。班目は足音を立てないようにして、来た道を戻った。まだ男は林道に入ったぐらいのところにいるのだろうと推測した。
 広がりのどこかに隠れるよりは大きく広がっている林道のどこか一か所に隠れた方が逃げることもできそうだった。広がりから少し離れた道端の林の左手に潜りこみ、一本道から二十歩ほど離れたところで腰を落とした。身体を小さくするだけでは草むらに隠れることができず、横になることにした。地面に寝転がった。
「こんな時間に一体なにをしているんだろう。おおい、こんにちは」
 足音はまだ班目の地点まで及んでいなかった。そのはずなのに、頭の中では、地面に寝そべっている自分を男が一本道から見ているイメージが浮かんだ。
「こんにちは。返事を下さい。危ないですよ。一緒に引き返しましょう」
 足音が聞こえなくなっていた。班目は耳を澄ませた。親が完全に寝静まったのを待つ子供のように。どこまでも林が続く道の中で、完全に草むらに身を隠している自分を見つけられるはずがない。
「おい、どこに隠れてんだよ。出て来いよ。挨拶してるんだぞ。無視してんじゃねえぞ。おらあ」
 班目はがさごそと草や土を蹴り上げて、縮み込みながら顔を上げると、そこには男の顔はなかった。耳を澄ませると足音は向こうへ行っていた。林道から一本道に出た。
「こんにちはー。こんにちはー」
「この時間ならこんばんはだよ。馬鹿野郎」
 そう言い放つと、走って林道を離れる。板橋を通り、トイレの設置されている広がりに出て、駐車場まで駆け下る。自転車は隠されたままそこに在り、班目は乗って、I湿原を後にする。


   土日Ⅳ


「今日の意識の持ちようは」
 もういいよ。いもの煮転がし。テレビを消す。
 職業安定所、もしくは軍隊にでも入って、姿勢や目線、気の張り方を正してもらうべきだと思った。自分の勝手な思い込みでなく、わけのわからない(講師)の言うことではなく、老人化や硫酸で顔を溶かしたりして現実から感覚を遠ざけようとせず、ハキハキした人間にしてもらうのだ。
 班目は質問ノートを取り出して、それを開いた。質問を書いた。
 小さいころの湯谷温泉はどんな感じでしたか。駅はいつごろ開通したのですか。ゆーゆーありいなという健康ランドができたとき、湯谷温泉の旅館との確執はありましたか。
 あの娘の設定が湯谷温泉の生まれ育ちになった。小さな頃から不動滝への山道などを歩き、旅館全体の盛者必衰を眺めて成長した。S市への学校は湯谷温泉駅を経路して通学し、アルバイトとして友人を雇ったりして、接客のマナーなどを教えて、教育係としての素質も培ったかわれた、現在二十五、六歳。
 現物のあの娘がどんな人生を歩んだのか。一切含まれていない。シコシコと記入してきた班目の妄想の塊だ。
「以前私が言った質問ノートは書いただろうか」
 声に班目の目がぱっと見開く。テレビを消したはずだぞ。班目はテレビに映る(講師)を凝視する。分厚い唇を前に突きだす。
「質問は十個出せば十分だ。それ以上書くことも難しいだろう。いっぱい書いて、そこから優れた質問を生むような手法を使う奴もいるだろうから、十個以上なら数は自由だ。その中から三つに絞るんだ。自分から話しかけるときの、相手との会話のきっかけとなる質問だ。その三つはタイプの違うものにしてくれ。いろんな状況がある。相手の調子が悪いときもあるし、周りがうるさいときもある。どんなときでも対応できそうな、手堅いものを選んでくれ。会話がはずめば、三つ以外の質問でもはまるときがある。これで会話を続けることができるはずだ。ただし、沈黙は悪いことではないし、質問ノートは相手との距離を縮めるものではないことを知っておいてほしい。きっと相手は、いろいろ聞いてきてうっとうしく感じることもあるだろうから」
 質問の数を数える。百八十三個ある。その中から使えそうな質問を、それぞれ違うタイプのものを選び、自分が聞きたいことを優先した順番をつける。赤まるを打つ。
 それが終わると、班目は一ページ目に書いた社長への質問に目が入ってしまった。
 社長が三十一歳の時はどんな感じでしたか。釣りの魅力は何ですか。魚を釣れるのを待っているとき、どんなことを考えていたりするんですか。どうやって奥さんを射止めたんですか。何を大事に、軸に生きていれば仕事ができるようになれるんですか。仕事の速い人と遅い人の違いはなんですか。どんな正社員が今後来てほしいと思いますか。社長が出来が良いと認める人は、従業員の中の誰ですか。昭和の時代で一番笑った芸人は誰ですか。今の若手の芸人で好きな人は誰ですか。ピーク時を超すために、どんな工夫をしていますか(自分の工夫も言えるようにしておく)。若いときと今と仕事ができる効率はどちらが上ですか(黒く線で潰されている。そんなわかりきった質問するなと言われる可能性があるため)。
 社長への質問が書かれたページを切り取ろうとする。が、やめる。質問にも社長にも罪はない。悪いのは自分だ。鬱憤晴らしみたいで切り取るのは控える。三十二年間そうして生きてきた。 そういう意識だから駄目なのだと自分の戒めのためにページを破く。びりびりに破いてキッチンに持って行く。ボールに水を溜める。ゴミを中に浸す。どうしていいかわからず放置する。
 しかし新しい自分になった気がする。
 質問ノートのページを開く。湯谷温泉のあの娘への聞きたいことが埋め尽くされている。
 質問こそが人間関係を生む。優れた質問が「起爆剤」になる。一ヶ月前はそう信じていた。(講師)に提案される前から新聞記者時代よりも前から気がついていた。
 質問を使わなければ意味がないことに気がつく。自分には百八十三個の質問という名の「起爆剤」がある。この爆弾を起爆させるのは今しかない。日曜日が過ぎれば週六の勤務が再び始まる。固めた決意が鈍る。
 愛用の睡眠薬を飲む。部屋の明かりを消す。布団の中で丸まる。「もうおわりだ」。心臓の音がこだまする。
 テレビの電気が自動的について、スポットライトを浴びた(講師)が映し出される。
「この前言っていた、質問ノート。私が持ってきましたんで、みなさんに見てもらいます」
 (講師)が教壇から離れて、右側の通路へ。階段へと設置されているカメラに近づいていく。
 カメラのズームが下がり、教壇が小さくなる。周りの講義室の様子がわかる。照明が付けられているのはステージだけだ。
 カメラが幾ら引いても、生徒はどこにもいない。講義など行われていない。教室には誰もいない。
 (講師)が画面いっぱいに入り込むと、質問ノートを開いてカメラに見せる。
「これが、オードリー・ヘップバーンへの質問で、これが俺のきんたまへの質問、次にこれが今後甥の命を奪うであろう何者かが持つ何らかの凶器への質問」
 ページには何も書かれていない。
 髪をくしゃくしゃにした班目が力なく布団から起き上がる。
「寝かせろよ、バカ」
 液晶テレビの人工の光に目をやられる。リモコンで赤いボタンを押す。白紙のノートを持ちながら酔った大学生のようににたにたしている(講師)が部屋から消える。


   土日Ⅴ


 班目がこの地に来たのは、自信という意識の持ちようを身に着けるためだった。自信でなくとも、今習得している意識の持ちようの代わりとなるものなら何でもよかった。
 空は快晴だった。探査機のように鷲が絶壁付近を旋回し、針でつついた程度の大きさの飛行機が空を横切っていた。あの日のように露天風呂を占拠できればと、早めに家を出たかったのだが、部屋でそわそわしたまま時間が過ぎていった。以前より少し遅めの午前十一時半に湯谷温泉の駐車場に車を停めた。
 飯田線の小さな踏切を渡ると、宿の看板が道に沿って並んでいた。その中の一番手前のあの崖の旅館には、前にはなかった看板が立てられていた。白い背景に黒い文字で「とれたて鮎づくし定食。二千百円」。鮎は山岳地帯の市村の名物だった。温泉から出た後、これを食べようと思った。三十二歳の誕生日の記念して。
 班目は一度崖の旅館の入り口を盗み見て、そのまま通り過ぎた。民家があった。道端には二台車が端に寄られていて、駐車場で大人たちが喋っている横を、子供が五人で追いかけっこをしていた。がたいのいい男や奥さんらしき女性が数名固まっていた。班目は下を向いて歩いた。
 湯谷温泉に来るのは三度目だったが、前回はこの地区まで来なかった。とある旅館の隣を通り過ぎると、建物に入った時に、スタンプラリーをやってますけど、どうですかと声をかけられたのを思い出した。写真撮影も快く引き受けてくれた。親切にしてくれたのに良い記事が書けなくてすみません。班目は腕で目を拭った。
 湯谷温泉街道の端っこまで行くと、来た道を戻った。民家の前には車がなく、夫婦も子供もいなかった。早めに羽化した蝉の鳴き声がする中、再び人の気配のない道路を歩きながら、再び崖の旅館に戻ってきた。一台の車が旅館の隣の駐車場に入った。運転席にいる人物を確認すると、一人風呂は叶わないことを悟り、湯谷温泉から出ていくことにした。
 坂の上に旅館があるのを見つけた。その旅館が予約制なのかわからなかった。旅館の前まで行ってみることにした。坂を上っていくと、看板が立てられていることがわかった。温泉のイラストに「都忘れの湯」という赤い丸っこい文字が描かれていた。
 入り口はドアが開けられており、広い玄関から旅館内が見渡せるようになっていた。班目は内観を様子を見る。玄関には旅館のスリッパが扇状に並べられていた。床には赤いじゅうたんが敷かれ、ロビーには同じ色の椅子が並べられていた。その左にはテレビが置かれていた。二年前に来た時と変わらないラウンジだった。当時はどうやってすんなりと入っていけたのだろうか、記憶になかった。
 カウンターには黒いスタッフTシャツを着た、肌が褐色の若い女性店員が立っていて、一度だけ班目の方に顔が向いた。坂道は歩道から外れた場所にあって、温泉街にいくには、この坂を利用する必要がなかった。女性店員の背筋が張るのを班目は見た。店員はあの娘だった。


   土日Ⅵ


 班目は旅館に入り、玄関で靴を脱いだ。靴箱がなかった。玄関に置かれた靴は班目のものだけだった。こめかみや口角を細かく震わせながら、カウンターに近づいていった。
「すいません。入浴できますか」
「千円です」
 班目は黄色い財布を出して、お金を支払った。
「入浴の場所は分かりますか」
「イエ」新聞記者時代に暖簾がかかっている部屋を見たことがあるので、知っていた。
「ご案内しますね」
 店員がカウンターから出て、先頭を歩いた。班目は彼女についていった。一度振り返り、客が自分についてきていることを確認すると、そのまま正面を向いて、階段を上がった。
 班目が口を開いた。
「あの、以前あなたに接客してもらいました。二か月前のことです。そこががけっぷちに建っている旅館でした。こちらでも働いているんですか」
 反応なし。おかしなタイミングで声をかけたのだろうか。かっと班目の体が熱くなって、夏の日にぬれたシャツがさらに水分を吸って重たくなる。
 代わりに班目の中で店員の声がする。
 湯谷温泉のどこの旅館にも設置されていますよ。私はアンドロイドなんですよ。この寂れた温泉街に人を呼ぶために、どんな客でも一目ぼれするような、相手の好みに合った容姿に変態化するように、私は製造されたんですよ。接客だって、あなたのような性犯罪者のような顔をした、人間の女であるならば近寄りたくもないような男にも、恋人のように愛想よく対応できるようにプログラミングされているんですよ。私はアンドロイド。客が来ないことで支配人に伝票で殴られてもお前みたいに退職せずに居られる。電子仕掛けの安息の娼婦ですよ。
 班目は店員の少し肩幅が広い背中を眺めていた。小柄な班目と同じぐらい、もしくはそれ以上ぐらいの。男湯は階段を上がって右手のすぐの場所だった。返事がもらえないことにあきらめつつあった。 
 男湯の戸を開けて、店員が入っていくと、パチパチと電気のスイッチを入れて部屋が明るくなった。
 床と壁の間の溝を見つめている班目の元に店員が戻ってきた。
「急きょ助っ人に来たんですよ。ここの人たちが用事で、各旅館から余った従業員が駆り出されて、二日間だけ仕事を任されているんですよ。旅館同士助け合って湯谷温泉は成り立っているんですよ。こちらが男湯になります。今お客さんがいないんでゆっくり入っても大丈夫ですよ」
 班目は店員の顔を見た。今度こそあの娘が石川秀美にそっくりだと思い切ることができた。「傷だらけのローラ」の妹と呼ぶにふさわしいくらい、店員の肌が焼けているのだ。

 


   土日Ⅵ


 中に入ると、正面に風呂場へと続くガラス戸があった。三段ごとにかごが置かれていた。ドライヤーも鏡も設置されていた。あの娘の言う通り、どのかごにも服は入っておらず、からっぽだった。一番隅の段に服を脱いでいった。最後にボクサーパンツを畳んだ黒いシャツの上に放り投げると、風呂場へと繰り出した。
 班目は両手を広げて、深い溜め息を吐きながら、天窓に聳える青空へと飛び立つように、背骨を反ると、二、三本関節が鳴った。明かりも、湯も、壁際に連なるシャワーも、奥の露天風呂も天窓も、そこから見える青空も、電線柱も、独り占めしているような、そんなささやかな気持ちになった。
 桃色の桶を持って、湯に沈めて水をためると、自分の身体にぶっかけた。頭も流して、透明色の湯船につかった。班目が入ることで水かさが増えて、大波となってタイルの上に流れていった。
 熱い湯に浸かることで全身の筋肉が揉まれていくような解放感を味わった。頭や後頭部、その中に収まっている脳みそのこりが徐々に自分の中から消えていった。そのまま意識はあの赤いじゅうたんが敷かれたラウンジへと精神がトリップした。
「すいません」
 お風呂上りで湯気が立ち込める班目が火照った顔をして、カウンターにいるあの娘に近づいた。あの娘は暇そうに身体を揺らすのをやめた。
「やっぱり湯谷温泉のことってけっこう勉強されてたりするんですか」
 用意してきたとびっきりの質問その一を口にした。
「はい。ここが地元ではないんで、N県から来ているんです」
「N県。それは遠いところだ。いやあ立派だなあ。ゆくゆくは総理大臣かな」
「乗り継ぎがないんで、一時間ほど電車に揺られているだけです。他の旅館の方とかおかみさんと話をして、いろいろこの土地のことを知りました」
「ああそれで。勉強熱心なんですね」
「ふふ。もしよろしければ、ガイドしましょうか。もっとこの地の良さを知ってもらいたいんです。実はいまキャンペーンを企画しているんですよ。企画会議に立ち会ってみてはどうですか。新聞記者の方ですよね」
「エッ。どうして知っているんですか」
「あのとき私もいたんですよ。ツアーの団体の中に。うふふ」
「ああ、そうですか。ノルマがあって、一か月でまだ二つほどしか記事を見つけることができていないんですよ。上の人に相談したんですけど、がんばれというだけで。身体を休めるために来たのに、いいもの見つけられてラッキーだなあ。良い記事を書くので、宜しくお願いします」
 店員から聞いた日時をメモにしたためた。これで今月は何とかなりそうだと、気が楽になるのだった。班目はリュックサックから名刺を出して、店員に渡した。K市黒野新聞社。電話番号とメールアドレス。班目喜吉の下にはローマ字が打たれていた。
「当時の記事を読みましたよ」名刺を持った店員の右手がカウンターに隠れて見えなくなった。
「いやあお恥ずかしい。あれは自分の中ではうまくいかなかったという気持ちがあるんですよ」
「うふふふ」
「いかがでしたか。店員さんの感想を聞かせてください」
「うふふふふふ」
「書けていたか感想を聞かせてください」
「うふふふふふふふ」
 浴槽に張った水面は弾力のある波に揺られていた。元新聞記者で鉄工所勤務の班目喜吉に戻っていた。
 波に揺られて日光を全方向に反射して輝く水面を眺めながら、今頭に浮かんでいたことを鮮明にしようとした。うっすらと机の引き出しの中のものが浮かんでいたのだった。クリップ、電球、使えなくなった携帯電話の充電器、ホッチキス、処分を命じられたもののそのまま入れられた新聞記者時代の名刺、鼻毛カッター、喉スプレー。机も引き出しも関係がなく、あの中身のどれかが出てきたような気がした。
 記憶の糸の先端は千切れていて、手の届かないくらい深い闇の中へと沈んでいて、思い出すことは不可能だった。
 班目は湯から出た。自分の団地の風呂のように、床に腰掛けようかと迷ったが、黒ずみも水垢も付いていない、清潔なスケルトンブルーの風呂椅子が用意されているので、そこに座ることにした。
 班目はシャンプーを泡立てて、濡れた髪につけた。髪に浸透させた後、前髪も横も後ろに持っていき、手で押さえてぺちゃんこにした。班目の分厚くて長い剛毛を後ろに束ねた。髪が水分を吸って、頭がきれいな湾曲に収まっていた。おでこについた泡を指で払った。鏡の上にある橙色の電球によって顔の彫りが際立った。家で見る自分と比べてみれば、幾分ましな顔つきに見えた。
 風呂場から出た。時計を見た。一時間が過ぎていた。タオルを絞って、身体を拭いた。家から持ってきた茶色のボクサーパンツを穿き、服を着た。鏡を見た。


   土日Ⅶ


 自信、自信と鏡の自分に向かって唱えた。自信という言葉の響きに神経を研ぎ澄ませてその波長を察知し、その波に身を任せた。鏡の中の自分の目つきが強くなった気がした。気分も高まりつつあった。許容範囲が拡張され、どっしり根が張ったような意志の強い男に生まれかわっていた。
 自信を持ち、胸を張り、大名のごとく股を大きく開いて股間を晒し、背骨をぴんと立たせている鏡の中の自分はどことなくうさんくさく、一生懸命虚勢を張っているように見えて、これは違うと思った。少し他の意識の持ちようを混ぜることにした。
 はっはっはっは。犬のように呼吸を荒らげる※興奮させた。自分の身体に自信と老人化を両立させようとした。眉間の皺が寄った。目を力強くつむったり、開けたりした。ときたま吐き気すら感じるのだが、しらふで人前にでていくよりましだった。
 目の前の鏡を見ると、薄い存在感ながら、油断ならない男がそこにいた。いつ背後から切りかかられても、気配を察知し、タイルの床に転んで暗殺をまぬがれる、そんな男だった。
 自信が八、老人化が二の割合。自分が居心地が少しはよくなり、頭の血の巡りも悪くはなかった。
 新たな武装が出来上がると、あの娘に話しかけようと思った。微調節したかった。確固たるなるものに仕上げて、明日の鉄工所で八束という目標達成するために、あの娘に話しかけようと思った。
 あの娘に投げかける質問を頭の中に浮かべた。やるしかなかった。いつまでも弱者の椅子に座っているわけにはいかなかった。準備が整うと男湯から出ようとした。
 がたん。
 目が用心深く、きょろきょろと左右に走った。脱衣所で待機した。何気ない日常生活の音のはずなのに、動くことができなかった。バリアがはってあるかのように、危険を察知した小動物のように、箒が絨毯をこすれる音が班目には怖くてたまらないのだった。
 まだ廊下で音がしていた。がたんがたん。観葉植物の葉っぱがこすれる音。バケツを置く音。掃除夫か、仲居か、あの娘か。誰かが近くの廊下を箒で掃いていた。
 怖いと思うのは、きっとこれが正しい意識ではないからだと班目は思った。鉄工所でも自信ということをほのめかされて、胸を張ってみたものの、どうにも違和感があって、何度もその意識の持ちようを止めていたのだった。
 班目はいつも胸を張ると、椅子取りゲームを連想させられた。一つしかない椅子を奪い合い、勝者が生まれ、敗者も出てくる。今自分が外に出られないのは、清掃員の方が強いエネルギーを放っていて、それに跳ね返されているからだと班目は推測した。
 身体の根本からイデオロギーを滾らせて、あの椅子を自分から奪い取らなければいけない。外にいる清掃員が相当強いエネルギーを持ちながら旅館内を巡回していると思うと出られなかった。
 がたんがたん。
 脱衣所の鏡に映った自分の顔を見ていた。ぐったりしていると、箒の音が消えていた。
 班目は戸を開けた。廊下には人がいなかった。
 今この旅館の中で聞こえる音と言えば、蝉の鳴き声と、小さくテレビが流れているぐらいだった。箒の掃く音もなくなっていた。
 ラウンジへ降りる階段に近づいて、そこから覗くカウンターを見た。誰も立っていなかった。玄関の正面に無数のスリッパが並んでいた。班目の靴のつま先が外に向いて綺麗にそろえられていた。カウンターの机には金色のベルがきらきら光っていた。
 この調子では人と会話するのは無理だと判断した。退散することにした。班目は階段を使って一階に下りていった。足音も立てずに、そのまま玄関に置かれた靴(つま先が外に向いていて揃えられている)を回収しようと歩いていった。うまくいった。そこまでたどり着くと、後ろから小さな足音が聞こえた。人の気配が何もないはずの空間から沸き出てきた。
 角がまん丸くて赤いふかふかしたソファーに座っていた人間がいたのだ。その足音は静かに班目に近づいてきた。このまま旅館を出ようと思った。気が付かないふりをした。両足につま先から靴を突っ込んで、踵が入りきらなくとも構わずに、かぽんかぽんと靴を鳴らしながら、光射す夏の空へと進もうとした。
「お客さん」
 班目は足を止めた途端に自分が十二、三の男の子にでもなった気がした。背骨から頭へと熱気が駆け抜けていき、身体が火照ってきた。訂正したとはいえ、一瞬でも実験台などという扱いをした声のする方角へと静かに身体を振り向いた。


   土日Ⅷ


 店員は小皿とつるつるした黒い箸を持っていた。
「よかったら柴漬けを食べていってください。ここで漬けたものなんですけど」
 頭の中で上手く変換できないまま班目が小さく頷くと、店員が足を進めて、二人の距離が縮まっていった。なんの意識も装備せずにしらふでここまで歩いてきた自分の無防備さを叱咤した。
 店員から箸を渡された。微かに店員の手が触れて、班目の瞬きが少し早くなった。店員の右手の人差し指第二間接に触れた。空気のように外へ飛んでいきそうな足をなんとか落ち着かせて、踏みとどまろうとした。今のところ店員は班目に白い目を向けてはいなかった。
 店員の手にしているお皿の柴漬け一つを箸で摘んで口に含む、箸を店員に返す。これだけのはずなのに。箸の先を柴漬けに合わせようとした。自分の手が震えていた。それに気がついたのか店員が一度視線を下に向けると、班目は感情が混みあがってきて、泣いてしまいそうになった。気を強く持つようにして、一番端の小さな一切れを挟んで、渇いた口の中に入れていった。
 黒Tシャツから膨らみを作っている店員の胸あたりに視線をとどめていることにも気が付いていなかった。口の中で柴漬けを噛んでいて、どこで今浮かんでいる感想を言ったらいいのかわからなくなっていた。湿りきった班目の見開いた目は、店員の女たる徴から釣り目へと移っていった。
「おいしいです。これ売り物なんですか。二パックください」
「売れなくて困ってたんです」
「全部ください」
 そんなつもりで言ったんじゃないんです、軽口を叩いたことを店員に後悔させてしまったと感じて、班目は自分のまっ平らな腹に顔をくっつけるようにして背中を丸めた。
 最近三十二歳になったその記念に、とか、友達のパリ旅行のお土産のお返しをしたい、とかいう内容のことを声を震わせながら口にした。伝わったのかは怪しかったが、ここでお待ちくださいと縮み上がっている班目に告げて店員は離れていった。
 班目は今のうちに呼吸を整えた。抜け殻となった自分に強い意志を持ってもらうために言い聞かせた。とりとめのない自信なんて持たなくてもいいから、勇気を出して。五月十五日のあの日の二の舞にならないように。しかし班目の耳には聞こえていなかった。
 店員は棚に置かれた柴漬けをカウンターに回っていった。お土産コーナーに置かれた、抹茶ロールケーキ、電子レンジで温められるインスタント五平餅、ブルーベリーのパウンドケーキなどパッケージや今風のデザインが加工された箱が、パックに入って値札シールが張られただけの柴漬けにごぼう抜きされて、恨めしそうにしているように見えた。
 店員がレジを打っている間、班目はその空になった横のわさび漬けの山を見ていた。そのパックの緑色のぶつぶつ一つ一つから、俺は実力で売れてやるぜ、卑怯な手を使わずに、かわいい女の子に抱かれて売られるなんて実力でも何でもないという、憎悪すれすれの声がするのだった。
 自分が不条理に加担したようで嫌な気分になった。俺はあんた側の人間だよ、と言いたくなった。わさび漬けも全部買いたかったが、そういうことではないことがわかっていたので、班目は下を向いていた。鉄工所で履いている緑色の安全靴があの娘にどう見られているか気になりだした。
「無理を言ったみたいですみません。一パック四百円で、九パックで3600円です。ありがとうございました」
 ビニール袋に入ったおみやげを受け取ると、班目が一つ目の質問に切り出した。祈り、または愛の宣告に近しい感情であふれ出た言葉は、血を吐くような思いだった。言いながら首を小さく横に振っていた。今更ながら自分は今、ずっと想い描いてきた人物を目の前にしていることがはっきりしてきて、白昼夢を見ているような、気の締まらないになった。店員がその質問に答えると、後はどうとでもなった。
 興味のあることを人に聞くというのは、通常の人ならなんてことはないのかも知れないが、班目にとって懐かしい感覚だった。
 K市の市長選挙があるというと、駅前に立ってどこを変えて欲しいか通行人に意見を聞いて回ったり、ミシュランで二つ星をとった料亭で口数の少ない料理長相手にどう話を引きだそうか、夜遅くまで調べ物をしていた、新聞記者時代の記憶が蘇ってきた。あのころ、がんばって人と話していた頃の感覚を思い出した。
 意識の持ちように頼らずに、班目は普通に話すことができていた。次の話題へとつながる枝が何脚にもなってうねうねと伸びるのだった。
 班目は店員のことを知っていった。
 勤め先のあの崖の旅館はみんな優しくて働きやすいということ。接客が楽しいということ。このあたりには幽霊目撃談を聞いたことがなく、心霊スポットなどというものも見当たらないということ。日帰り温泉は土日は忙しいときもあれば、空いているときもあって、必ず人がいないという保証がないということ。あの娘が菅原沙希という名前であること。ホットプレートなど浮き石などがあるが、温泉から見える巨大な岩には特別名前もなく、近辺の谷では珍しいものではないということ。地元がS市なので、近辺には詳しいということ。
 店員から見て自分が三十歳には見えず、もっと年がいっているものだと思っていたと告げるその言い方や表情が、自分が殺意を沸かない言い方や表情ができるテクニシャンだということ。
 名古屋の大学に受かって、来年には都心で一人暮らしを始めること。
 十八歳の高校生であるということ。
「時間は大丈夫ですか」
「そろそろ行きます。一人で遠出すると寂しいものがありますんで、いろいろ聞いてしまったみたいです。見慣れない地に来ると、いろんな疑問がわきますんで、地元の方に尋ねることができてよかったです」
「ありがとうございました。また来てくださいね」
 店員がお辞儀をした。ありがとうございましたという温かい言葉に身が震えて、班目がちびちびとお辞儀をして頭を上げると、店員が肩ほどの高さで、三度ほど柔らかく手を振る。班目はその姿に目を丸くした。信じられなかった。
 あの娘が俺に手を振っている。
 この人自分に愛想よくするなんて。頭がおかしいのではないかと班目は感じた。そして、親切に接してくれた人に穿った考えを抱くことに、自分に自信が持てないことがこんなにも惨めなことなのだと思い知るのだった。


   土日Ⅷ


 キャリーバッグを引きずっている、がたいのいい男が坂を上がっている姿を見て、心臓が飛び出そうになるほど驚いた。あともう少しで大きな声を出しそうになるところだった。
「すいません」
 班目は猫背で謝った。
「こちらこそ」
 がたいのいい男は頷いた。
 花柄のワンピースを着た栗色の髪を伸ばした背の高い女が顔を下に向けた。見てはいけないものでも見たかのように。一瞬班目に向けたのは、白い目だった。
「俺を見ないでくれ」
 その後ろにいる老夫婦が歩いていると、班目はその老夫婦の方に吸い込まれそうになった。
にじみよってくる男に気づき、にじみよる男に気づき、駆け足になって、遠ざかり、二人とも白い目で班目を見た。
「見ないでくれ。見ないでくれ」
 班目は駐車場の一番奥の正面駐車したスズキの車に帰った。木陰で直射日光を避けており、また山奥ともあって、車内はぬるく、灼熱地獄をまぬがれていた。
 頭を激しく揺さぶったり、瞼を強くつむったりした。
 まだハイは続いていた。あの娘と会話したことが嘘のようだった。あの娘と会話した余韻や達成感が全く感じないのは、自分には縁がないものだと切り話したからなのだろうか、と班目は思った。意識とリンクできずに現実世界を静かにさまよっていた。クリアな視界は狂気的だった。
「どうしょう。運転できそうにない」
 一旦横になって睡眠をとることにした。空気が蒸して暑かったが、窓を開けることはできなかった。ある程度広い駐車場で、一番奥に駐車したにもかかわらず、まだ手前に空きがあるにもかかわらず、隣に車が駐車していた。持ち主が帰ってくることを思うと怖いと感じるようになってしまっていたのだった。ガラス窓一枚あるだけで緊迫感が薄れた。
 汗をだらだらシャツに浸み込ませながら、運転席で卵のように膝を抱えて座り込むと、班目は薄く目を開けて、頬に一筋伝うなにかを感じた。それから浅い眠りについた。
 班目がデジタル時計を見ると、午後三時四十一分と表示されていた。あれから二時間寝ていたのだった。
 体調は、優れているかどうかわからなかった。いってみれば、睡眠前も調子が良かった。しかしどこかの神経がだめになっている、と班目は思った。青い空が澄み渡っていて気持ち悪かった。
 仕事を休もうと思った。
「しかし風邪じゃない。体調も崩してない。睡眠もとった。女の子と会話は出来るのに、仕事は休むのか」
 蝉の鳴き声が急に大きくなったように感じた。
「仕事を休めというのか」
 班目は車の中で叫んだ。まわりに聞こえても構わなかった。きょろきょろして、後ろを振り向いたり、白い眼をしている観光客がいたら、今度こそ殺してやろうと思った。
 少しおかしな、人よりずれた動向をしているってだけで、市民権を得たかのように、我が物顔で他人に対して白い目で見るような愚鈍な奴は殺したほうが世のためになると思った。なにより班目は自分がいきなり大声を出したことにびっくりした。
(外に出られるか)
 内から声が聞こえた。じめじめした、膜の中から聞こえるような、はっきりとしない声だった。
「がんばれば」
(じゃあ、出てくれ)
 班目はドアハンドルに手を掛けた。
(扉を開けすぎないように気を付けろ。黒いワンボックスがまだ停まってる)
 身体を車から出た。
(看板を見ろ)
 看板はトイレの向こうに立てられていた。大きな看板だった。一度全体を見渡して、人がいないか確認した。もし今、車や自転車、人が視界にはいってきたら、驚いて心臓が破裂しそうだった。駐車場は静かだった。静かのまま、看板までたどり着いた。
 地図を見た。A県の山脈町村四つが記されていた。
鳳来寺山
 石段を登り歴史を巡る旅に出る、というキャッチフレーズが付けられていた。
(そこに行くんだ)
「わかった」
 道順を頭に叩き込む。車へと歩いていく。


   土日Ⅸ


 駐車場から出て、左方面の鳳来寺山パークウェイへと向かった。車が山を登っていった。十五時半のオレンジがかった日差しによって、青葉が赤みを帯びていた。FMに局を設定したカーステレオからは、山に電波が遮られて、砂嵐が車内に延々と流れていた。
 班目は小さな頃見た夢を思い出した。車を運転しているものの、自分の身体が小さすぎて、下に潜ってアクセルを踏んでハンドルをバーベルのように持ち上げながら、フロントガラスが見えないまま操縦しているあの夢を。今はそんな気分だった。アクセルを踏む足も、ハンドルを握っている感覚もどことなく頼りなかった。
 道路の端に設置されているガードレールの先は崖だった。高いところまで行っているにも関わらず、見える景色は山ばかりだった。その白くて長い帯の建設物はどこまでいっても大きなものがぶつけられたようなへこみがなかった。操作性の危うさから、まともでない自分がその第一号になるのではないかと、頭の片隅で感じるのだった。
「会話が弾んだってこっちは感じているだけで、ずうずうしい話だけど。もし告白して付き合うことができたら。仮に。三十と十八のカップル、俺の精神的な未熟さを認めたうえでの交際だとして、あんなに笑ったり楽しそうにしたり、元気があったり、そんな娘が傍に居たら、がんばって生きて行こうと思えるのかな。これも俺が十代二十代がんばってこなかった報いだよな。まともな人間になろうとして、なれなかった俺の意志の弱さだよな。それに振り回されるとなると、あの娘がかわいそうだな。俺の器が小さいのか。年が離れた夫婦だっていくらかいる。今頭に浮かんできた芸能界のペア何組と俺と比べると、どうしてもそのグループには入れない気がするんだよ。俺の場合は、一年に一回報道される、十一歳の小学生の友達が言うことを聞かなくて、二十歳の無職が原型がなくなるまで殴り殺すみたいな、そんな幼い関係の気がするんだよ」
 班目はたまらなくなって、ボタンを押して窓を開けた。左手で空いたリュックから質問ノートを取り出し、窓から外に出そうとした。窓が半開きだったため、ページが開いたノートが、引っ掛かってうまく外に投げ出せなかった。その光景が飛行機のスクリューに飲み込まれてもがいている鳥を連想させた。運転を危惧していた数秒前などおかまいなしだった。
「このやろう。誰が幼いだ」
 右手で握りつぶして、くしゃくしゃになったノートが車の窓から放り出された。ノートは無惨にも車道の上で跳ね回り、速度三十の標識近くまで転がっていくと、対向車線の車のタイヤに潰された。白のスズキは白い物体に動物かなにかと勘違いしたのか、急ブレーキをかけた。
 班目はすでに見えなくなったその車に頭を下げて謝った。
「すいません、大丈夫ですか。悪いことしたな。平穏な日曜日のドライブにノイズを入れて」
 道を走っていると、右側に狭くて暗い道路があったことに気が付いた。今走っている三十二号線と比べると、ぱっとしなかったし、山道特有の進んだ先が行き止まりという、何のために存在しているのかわからないような道に思えた。
「駐車場って今のところか。道を間違えたのか」
(この先にある表参道からでも行ける)
「曲がるなら曲がるって言えよ」


   土日Ⅹ


 午後四時になり、下山する人々と入れ替えに班目は登山へと繰り出していった。蝉の中にひぐらしの鳴き声が混ざっていた。山に寄り添って建てられた豪邸や、レトロな金物屋、大体の建物は大きかった。一点だけある飲食店の駐車場には人が立っており、駐車料金をせしめようとしていた。この先にも同じような光景があった。たまに後ろから車が入ってきて、道の両端へと人が裂けた。その車がこの先の駐車場に停まるのか、表参道の住民なのかは班目にはわからなかった。
 山道の入り口には、闇に包まれた公衆トイレと、「六時には日が暮れるので、それまでにはふもとに戻ってください、鳳来寺山観光組合」と描かれた看板がかけられていた。
 山道は舗装されていて、幅が広く、班目が道の外側に沿って下を向きながら歩いても、下山する人とぶつかる心配はなかった。登山の装備を備えた年配の五人組とすれ違った。サンダルが視界の中に入ると、それが若い女性のものだとわかった。彼氏は白いシャツに黒いベスト、黒いハットをかぶっていた。八人の登山サークルのような若者の集団も登山を楽しんでいた。荒々しい吐息を出しならが山を下りる細身の女性が、年の離れた中年男に手を引かれていた。
 外れの段差に座って休憩していたピンクのハットをかぶった男の前を通り過ぎると、少し酒の匂いがした。
「頂上まで登るの。こんな時間から」
 声のする方へと振り向いた。
 中年が後ろの若者に声をかけていた。少し視界に入った若者は、チノパンを穿いていた。藍色のシャツ、赤いナイキのスニーカー、痛んだ黄色のリュックサック、一眼レフカメラを首からぶら下げた、冴えない青年だった。
 若い男は中年男性を歓迎しているように思えた。一人で遠出している場合、人恋しくなり、少しの人との触れ合いでも、温かい気持ちになるという経験は、班目にもある。まるで別人になったかのように振る舞うことができるのが旅の醍醐味だ。
「新しく買ったカメラの試し撮りしたくて。お酒を飲んでいるんですか」
 若者が不信めいた声を出した。
「気付け程度でね。飲んでいないと、だめなんだ」
「危険ですよ」
「そんなことはない。死ぬことはない。死ねないんだよ。死ねる人と死ねない人がいるんだよ。どうしようもないくず人間は死ねないようになっているんだよ。二週間前も八田山にカップ酒を二杯飲んで登ったけど、一度も転ぶことはない。大学時代に登山部だったとしても、ビール腹かかえたこんな中年でも、転ぶことはない」
 班目は二人の後ろを歩いていた。次第に距離が離れていき、見えなくなっても、男の声だけは聞こえていた。班目自身の心の声のように、どこまでも鳴り響くのだった。
「山には魔力があるんだよ。生命力にあふれてる。登山するだけでエネルギーに満たされる。俺は山によって生かされているといってもいい。このばかみたいにだだっぴろい山の中にいると、物事全てがどうでもよくなる。がんばって登り切れば、さらに大きな世界を味わえるおまけつきでな」
「同感です」
「俺は保険に入っているんだ。山で死ねば、事故なのか自殺なのか判別しにくい。保険もおりやすいというわけだ。公には晒されていないが、富士山でも事故死はあるし、この山だって毎年死人が出ている。人が来なくなるし、地元の店は赤字になるし、山里の過疎が進むし、報道してなんの良いこともない。暗に注意するんだよ。登山に適した服装と靴をとか、迷わないように看板を設置したりとか、非常食を用意、とか。いつ死ぬかわからない。俺が死んでも、奥さんとガキ二人が困らないように、保険金が入ってくるように常にしてある。加入二年以上なら自殺で保険金が降りる。どうしてかわかるかい。自殺目的で入られたら、会社からお金が出ていく一方だろ。自殺願望を二年も持ち続けているわけがないだろうと、保険会社は踏んでいるのさ。俺が保険に入って三年目になる。だが、三年では人も状況も変わらないんだよ」
「じゃあ今日は死ねるといいですね」
 中腹に近づくと、歩道が不並びな自然石から、しっかりとした石垣に変わる。天上の枝葉からこぼれる橙色の光で山道内が火が付くように照る。山中に現れる空は白く、中腹へ上がる階段は天国に通じるかのようだ。
 表参道の階段を上がり終える。設置されたベンチに先ほどのピンク色の帽子をかぶった中年男性が座っている。カメラを持った若者はいない。
 鳳来寺周辺には人がいる。景色を眺める人。PSPを持って顔を画面に向けて熱中している子供ら。山岳帽をかぶった一人の男がヒールを履いた若い女にカメラを向ける。
 方向表示の看板を確認する。山頂へと続く石段と鳳来寺で道が分かれている。人が活気づくそこには行かず、再び山を登り出す。
 中年男性は班目の後ろにいた同年代ぐらいの男に同じように声をかけていた。


   土日Ⅺ


 頂上までは一.一キロあった。鐘楼、鏡岩、六本杉、奥の院を潜り抜けた先の瑠璃山、標高六百九十五メートルのものであり、そこが鳳来寺山の頂上となった。
 表参道から仁王門をくぐり、日本名木百選の一つである「傘杉」(班目は顔をうつむかせていて存在に気づくことはなかったが)を超えた本堂までは二・三キロ、一時間の道のりだった。時計を見ると、四時五十分を針が指していた。
 頂上までの道のりは階段が急斜面になっていて、手すりが設置されていた。中央は棒で仕切られていて、行きと帰りがぶつからないようにされていた。本堂までは登山者がいたが、この時間から山頂を目指そうという人は今のところ見当たらず、下山しようとしている人ともすれ違うこともなかった。山頂への道は班目一人いるだけだった。
 ハイになった精神状態は恐怖どころか、疲労も感じない。息は上がってはいるものの、どこまでも行けそうな高揚感が、班目の中にもくもくと怪しく噴き出ているのだった。
 班目は左の崖崩れから強い光がさしているのを発見すると、正面に見える階段を尻目に、正規ルートから外れだした。ちょうど歩くのに邪魔なものがなく、岩が階段のように段差を作っていたので、足を踏み入れれば登ることは容易だった。落ち葉が腐食した地面は平らになっていて、柔らかくなっていた。班目は草木をかきわけて光の見える場所へと歩く。
 出た先は岩肌だ。来る時に見た鳳来寺山のポスターの、木々が禿げてむき出しになって、巨石が落下した後のあの部分に位置しているのだと思った。
 太陽は強力な閃光を発つ。まともに目を向けることも難しい。形状は波打ち、空は火炎が回る。足元は深い緑の束がこちらに向いて伸びている。柵もロープもない。
 大人が一人分だけ乗れるようなでっぱりがある。足場を見つけるとそこに片足ずつ乗せていく。そっと座る。足場は班目の体重を難なく支える。
 岩の溝に生えた草を千切る。茎を口で咥える。キャップをかぶったにきび顔のひねくれものがするように。班目は日曜名作劇場のオープニングの中にいる気分だ。
「班目君」
 ぴんと張った木の枝がグレーのピンクのチェックズボンを貫いた。緑色のジャケットが枝に引っかかり、葉っぱを何枚かくっつけていた。ズボンには穴が開き、折れた木の枝が引っかかっていた。俺は班目を少し離れたところに立って見守った。
「班目君」
 俺は登山ルートから背中を丸めながら班目のいる岩肌に出ようとした。班目の小柄な体系とは違い、俺の百八十ある高い身長では容易に抜けられない。


   土日Ⅻ


「班目君、新しい意識の持ちようだよ」
 俺はアメリカナイズした服にくっついた木の葉を振り払う。
「その場で大きくジャンプしよう。頭に振動を起こすことで、嫌なことを忘れて、一睡したような、リセットした心地よさが身体中に広がっていく。運動にもなるから、身体がなまった感じも解消される。部屋でも外でもどこでもできる。最高の気分転換法だ」
 太陽は大きくて、自分たちを食らい尽しそうだ。それを背負うおかげで、班目の身体は黒い影の塊に見える。様子の分からないそれに声をかけているのは気味が悪い。
 影の口に挟んでいた茎がぺっと吐かれて宙に舞う。
「朝のFMでやってたやつじゃないか」
「まあそうだけど」
「『意識の持ちよう』っていうのは、あの娘に合わせるためのものか。頭の鐘も、硫酸も、老人化も、全部本人の本来の力を弱体化させるものばかり。三十二歳が十七歳に、おじさんが女子校生に合わせるための『意識の持ちよう』。質問ノートがあったとはいえ、あんなに話が弾むはずがなかったんだ」
「そうだよ。班目君が悔しがってたから。自分からあの娘にアタックするのは斑目君には難しいだろうから、弱々しくしてあの娘の母性をくすぐるような立ち回りにしたんだよ。こっちも調節が大変だったよ。十七の女子の母性を引き出そうというのだから。どうだった。あの娘との会話。楽しかっただろう。班目君は強くそれを望んでいたんだもんな。会話できて良かっただろう。若い女と心を通わすことができて幸福だろう。これでこの世に思い残すこともないだろう」
 影はそのまま動かない。太陽の日差しは一向に強まるばかりだ。
「いいから、飛び跳ねてみてくれよ。班目君がハイと呼んでいる、頭のぼんやりが治るから」
「このバランスがとれない感覚はなんだ。七時間睡眠とっても、風呂に入っても、直らないぞ。身体を覆っている膜を失った気分だ」
「心が何も感じなくなっているんだよ。すべての感覚が受け入れられず拒絶している状態だ。パニック症候群の前兆、うつ病の傾向。週六の勤務は班目君が思っている以上にきつかったんだ」
「あらゆる手段を使って、体調には気を遣った。そのはずだぞ」
「体力ないよなあ。本当に。社会人は週六ぐらい働けて当たり前。俺らはそうじゃない。意識の持ちようをふんだんに使って、へとへとになって気力を出し切って、無理をしてやっと人との会話が成り立つんだよ。地中深く潜っているおかげで、頭を出すまでの時間が人より遅い。普通なんて暗くて脆い人間の道理にかなわない」
「俺はどこも悪くないぞ。三十二歳になって、鉄工所の簡単な部類の仕事していて、うつ病になるっていうのか。俺はどこまで出来損ないの人間だよ。それにぴょんぴょん飛び跳ねるだけで、うつ病って治るのかよ」
「嫌なことが溜まっているんだ。それを忘れさせるためだよ」
「こうか」
 影が立ち上がる。斜面の岩の上で一瞬だけ足が浮く。
「そうそう!」
 俺は自分の口の水分がなくなっていることに気が付く。甘いものを食べたかのように粘り気に満ちている。口角が神経質に硬くなる。膝をがくがく揺らす。首をひねる。筋肉をほぐす。
 班目の影がもう一度跳ねる。それから、三、四と回数を重ねる。力を加減した跳躍力で、七、八、と岩肌に足を着ける。班目が一つ飛ぶだけで、俺は喉元が締め付けられるような感じがしたし、心臓もドラムロールを打つ。
「こうかい」
「そうそう!」
 土踏まずが岩の鋭く尖がった部分に刺さり、着地に失敗して重心を後ろに持っていかれると、腕をぐるぐる回しながら仰け反り、班目の足と頭の位置が逆転した。班目が顔に恐怖の形相を浮かばせたが最後、俺が立っている所から見えなくなると、頭部を強く打ち付けて頭蓋骨が割れるような鈍い音を聞いた。そのままずるずると斜面を滑っていって、下の方から鳥が羽ばたくたつ音が鳳来寺山全体に響き渡る。
 すぐにその時間はやってくる。簡単に。そのために俺はここにいる。
 しかし現実の班目はまだ目の前で跳んでいる。千四百二十五の石段を上がったその足で。ハイという心のリミッターがぶっ壊れた精神状態で。観光協会も知らない鳳来岩の狭い足場で。鉄工所で使用している靴だ。底には頑丈なゴムがついて床を歩くとキュッキュと子供サンダルのような音がする。登山には向かない緑色の靴。
 同じペースで跳び続ける。このまま三日経っても同じことをし続けるのではないか。そんな気さえする。
「八束作ればいい。今、自分が逃げるわけにはいかない。ピークで忙しい。キャップ打ちは俺以外にもできる。どうにでもなる単純作業。だが手が空いている人間など鉄工所のどこにもいない。俺がいなくなったら、鉄工所はどうなるんだ」
 班目はぶつぶつ言う。その発言が虚勢なのか本心なのか、判別できない。湯谷温泉の駐車場で人の姿すらおびえていた男がこんなことを言うこと自体が正気でないように思える。
 班目喜吉は如何なる場所にも適応できず、誰からも相手にされなかった、というのが俺の認識だった。死んでやっと、少しは再評価してやろうという人間が現れて、三日後には味がなくなるようなちっぽけな男だ。
 鉄工所では二年間従業員の中で最も簡単な仕事で止まっていることに疑問も持たなかった(本人は悩んでいたようだが、ほったらかし同然だった)。
 罰ゲームです、みたいな顔をして突っ立っている店員に、親切にされたい、優しくされたいと、一人暮らしの年寄りのように惨めったらしい風をなびかせて、粗末な扱いをされて勝手に落ち込んでいるような男だった。
 俺はそいつに恐怖を感じる。
「いつまでこうしていればいいんだい」
「まあ、続けてくれ。良くなり始めるから。きっと」
 いまだに班目の顔を見ることができていない。声は本人そのものだった。俺はもっと事がすぐ済むものだと思っていた。三つでも跳んでしまえばそれでは終了なはずだった。
 きっとこのまま跳ばせておけばいつか勝手に足がもつれて潰れたトマトになるはずだった。体力には限界があるのだから。俺は安心して上層部に顔を出すことができるというわけだ。しかし俺は焦っていたし、この一手が良くなかったと後で悔いることになるのだった。
「班目君、もうやめよう。この意識の持ちようは君には合わなかったようだ。ごめんよ。もう跳ばなくていいからさ、その顔を俺に見せてくれよ。ずっと太陽を背負っていて、一回も顔をまともに見ていないんだ。実はけっこうかっこいい顔をしてると思ってるんだ。あの娘もメロメロにするような、工夫次第でスラッとなれるかもしれないぜ。俺がヒントを与えてやるからさ」
 俺が歩み寄る。日の光が少し和らぐ。コントラストが下がる。シルエットでしかなかない班目の身体が、表情が見えてくる。
 班目の目は見開き、裂けるように口をひん曲げて笑っている。
 気持ち悪い奴め。
「もっと高く飛んだらどうだいいィィィィィィィィィィィィ」
 黒い影の背中に迫る。腕を伸ばして足場から落とそうとする。
 班目の身体が半回転する。急に自分の顔面が熱っぽくなり激しい痛みとなって倒れ込む。何が起こったのか分からない。もしかしたら知らぬ間に奴が石を手にしてそれを投げつけたかもしれない。
 腹に班目が馬乗りになる。俺の顔面を殴りにかかる。強く握られた拳をぶつけてくる。それを両手で 頭を両手でつかまれて地面に後頭部を叩きつけられた。俺もどうにかして抵抗しようとその腕を振りほどこうとするのだが力が抜けていて、びくともしなかった。
「お前なんかが死に抵抗してどうするの」
 風が吹いて時間が止まったように感じる。今の時期が初夏とは思えぬほど肌寒い。太陽がこんなにも近いのに光が見えない。鳳来岩は氷の世界だ。
「三週間まで鉄工所で働こうが一向に構わない。だけどこのままだと病院通いになるぞ。今まで貯めてきたお金は満足に使うこともできず、家賃と通院費と税金に取られていくんだよ。壊れた人間として、まともに働けない暗い人生を送ることになる。社長に言って早期退職させてもらえ。それか明日休むことだ。逃げ出して三十二歳で不利な経歴がつくわけじゃない。土下座でもして辞めさせてもらえ。キャップ付けなんて代用はいくらでもきく。お前が一生直らない病気を抱えてまで背負い込む必要はないんだ。『意識の持ちよう』はあの娘に対するものだけじゃない。自分の存在をなくして、その場に溶け込んでいられるようにするものだ。『意識の持ちよう』が発動できない今、お前は作業場に立てるのかよ。それとも自分に自信はついたのか。生きていくことを望むなら、俺の、講師である俺からの最後の意識の持ちようを紹介しよう。『自分に自信を持て』。あっはっはっは。弱者を食い物にしているような世の中の仕組みでも、お前の場合でいうならば、湯谷温泉の娘のスガワラなんとかちゃんで勃起したちんぽこの慰めものにしても、厚かましく、それらがまるでなかったかのように、自称まともなあの連中たちのように図々しく生きていくんだよ。俺が登山時の不運な事故にしてやる。自殺でないように仕向けてやるよ。それでいいだろ」
 俺の頬が岩の角に触れて、班目によってゆっくり強く当てられて、細い線上に血が流れ出た。
「痛い痛い痛い、やめてくれよ」
 班目は俺の頭を持ち上げた。勢いよく下ろして地面に叩き付けた。岩石の角だ。俺の眼窩に突き刺さり、右目とその侵入物が繋がった。
「なにするんだよ。てめえ」
 手も足も動かなくなってぐったりする俺の身体に馬乗りになった。班目は顔を何度も岩で殴り、動けなくなった俺の顔面が血達磨になるまで殴り続けた。涙は顔に滴る血に交じってしまった。班目が愉快な玩具で夢中になっている子供のように思えた。強い衝撃を与えると赤い血が出てくる俺の顔で遊んでいた。
 班目は俺の両肩に手をかけて身体を引きずっていった。班目がそっと俺の頭を掴んでそこに当てた。岩肌に溝ができていて、その斜面がネズミ返しになっていて、湾曲に尖っていた。それが後頭部の感触で分かると、俺の手足がぴくっと痙攣をおこした。
「理由述べろよ、おい」
 俺はその位置からずれようとした。再び馬乗りになった班目を手で押さえ、足をばたつかせて、身体をねじろうとしたがびくともしかなった。班目が俺の頭を掴んで宙に投げた。首に負担をかけて、頭部の落下を避けようとした。
「許して、許して下さい。すいませんでした」
 顔面に岩石で殴りつけられて、後頭部が尖った岩肌に激突した。岩肌の方が耐久力なく折れてくれ、と俺は祈った。割れた頭はスイカのように、血を吹きだして真っ赤な果汁の水たまりを岩肌の溝に溜めていった。俺は抵抗しようと手を伸ばすのをやめた。
 俺は生きることをあきらめた。未だに班目は焼け付く太陽を背に浴びて、黒い影になっていた。俺の薄ぼんやりとした生気のない左目が自分に向いていることに苛ついて、右目同様の仕打ちを受けるかもしれなかったが、その心配はなかった。
 おでこから滴る血におぼれていて、まともに視界がままならないし、あちら側からもどこに目玉が付いているか判別は難しいはずだった。俺は安心して、後頭部を殴打する班目の表情をぼんやりとみていた。
 班目は血の付いた岩石を放り投げた。向こうの湿った枯れ葉の上に着地した。黒い太陽のような班目の頭部が、俺の眼前に迫った。
「お前もおかしなやつだな。さっきのおじさんの話を聞いてないのか。クズは死ぬ道も残されていないんだよ」
「でもな、斑目君。『意識の持ちよう』ってのは誰にでもあるんだよ。素顔で生きていられる人間なんていない。誰もが何者かを演じている。疲れて無理するのは当然なんだ。お前の距離感はそれで正しいんだ。普通にいるとか、リラックスだなんてそんな距離感で生きていられる人間の言葉なんて鵜呑みにするな。このまま帰るわけじゃないだろうな。飛べよ。飛んだらすべてが終わりなんだ。飛べよ。どこにいくんだよ」
「仕事だよ」
 崖から離れる。草と木のトンネルへと戻る。枝葉の屋根はちょうど背丈ぴったりで、頭をかすめることなくすんなり山の中へと潜っていく。
 班目が時計を見ると、午後七時を回っていた。下山するには遅すぎる時間だ。小さな黒点の集まりが山道の真ん中を占領する。そこを通った班目の目や鼻や口に異物が混入し、わっと声を出して顔を覆った。
 暗闇に目が慣れる。風景の輪郭が浮かび上がる。ベンチには誰も座っていない。鳳来寺の休憩所にも。帰りの石段の真ん中を歩いた。夜の山は冷え込む。腕は蚊に刺されと鳥肌でぶつぶつができる。
 一人で何やってるんだろう。
 痰が絡んで声とは思えぬほどの雑音が出る。


   八束Ⅰ


 朝起きると、すでにセミの鳴き声がしていた。今日も暑い日になりそうだった。鳳来寺山での登山で足が張っていた。筋肉痛には至らずに済んだようだ。
 便所に行くと、ズボンを下ろし、亀頭を出して尿を垂れ流した。しょんべんが便器に落ちる音を聞きながら用を済ますと、水を流した。トイレから出た。それから班目は寝間着を脱いで、半そでの作業服に着替えだした。
 部屋が重苦しく感じて、土色のカーテンを開けた。枠が黒くくすんでいて、カビが繁殖していることが分かった。光が入ってきた。西側のカーテンを横にどかした。窓から白い明かりが射して、班目の身体がきらきら輝く光に包まれた。
 この部屋ってこんなに明るかったのか。
 班目は唸り声を上げると、当時のことを思い出した。どこか病的な明るさを感じて、自分には毒のように感じて、遮光性の高いカーテンを購入し、それで閉め切ったのだ。あれは働いてからすぐのことだった。暗闇を好むことも、外に出ることも、店員が怖くなったことも、働きだしてからだった。
 班目は再びカーテンを閉めた。今も光を浴びることに躊躇することに変わりなかった。恐怖を感じることで、ハイ状態は去ったのではないか、いつもの自分に戻ったのではないかと少しほっとした。
 ウォークマンを取り出すと、イヤホンを両耳に差し込んで、ディヴィッド・リンチの「イレイザーヘッド」のサウンドトラックを再生した。暗い曲が鳴り響いた。月曜日には必ずこうした。「エルム街の悪夢」のあの替え歌のようにならないための対策だった。
 アイマスクを装着して、ベッドに座った。どうしても自分が部屋にいるイメージが頭にこびりついて離れないことと、姿勢がまっすぐになっていることで、落ち着かなかった。タオルケットを頭にかぶせて横に倒れる。出勤時間までそうする。両足が小刻みに動いて、落ち着かなかった。無意識に胃のあたりをさすった。
 一曲終わると、タオルケットから脱皮した。カーテンの開いた部屋が眩しかった。


   八束Ⅱ


 「悪夢の鉄則」の「土日楽しいことをする」の判定が下されたらしい。
 心臓が高鳴った。冷や汗が脇や額に噴き出てきた。二年間通い詰めてきた職場と思えないほど馴染めなかった。三十二歳になって、昼休みになったら逃げ出すことも考えだす始末だった。 「意識の持ちよう」という武装を解除して人前を歩くのは心許ない。相変わらず「意識の持ちよう」はどれも使えない。ハイ状態ではするするとすりおちる。頭の鐘も老人化も自分の身体に浸透しない。このままここにいることはできないと思い始めた。明日は休むことも検討した。自分を励まし続ける。作業を続けられるようにしていた。
 昼休みになると、すぐには食堂にはいかずに、その場でじっとしていた。人の流れが怖い。水道やトイレに十七人もの作業員が集まる。その塊が小さくなるのを待つ。
「おい、班目。休憩だぞ」
 所長が声をかけた。神経質にびくっと身体が跳ねる。何も言えずに口をパクパクさせる。睡眠時間は八時間近く摂った。にも拘わらずこの落ち着きのなさだ。
 人が途切れたところで、持ち場から通路へ移動し、食堂の水道に向かっていった。手を洗い、ポケットからハンカチを出して水気をふくと、テーブルに座ろうか迷った。今の心境でここにいられるか不安だった。迷いながら、ふらふら歩いて、結局いつもの椅子に座った。弁当を食べて、いつものように機械のとなりに段ボールをしいて、そこに腰を下ろし、膝を抱えて座ると目をつぶった。意識が回復することを、今日が無事終わることを祈った。
 所長の声がする。
「班目は自分の態度を改めないといけない。ここに何しに来ているか、なにも考えていない。あいつは一生こきつかわれるだけで人生が終わる。接客もできないだろうし。事務はこの商業地では人が足りているし、ラインの仕事もあんなに作業が遅けりゃクビだしな。これからこの鉄工所を辞めて勤まる所なんて、あいつにはないよ。ずるい考えをして生きてきたあいつを人事は通さないだろうしな。社長もそう考えてあいつを置いてきてやったのに」
 従業員の数人もへえ、やら、馴染もうという気がない、やら、顔つきが人殺しみたい、やら、所長の意見に同意する。
 誰も班目の昼休みの行動パターンを、弁当を食べた後、鉄工所内に座っていることを、会話の内容を本人が聞いていることを誰も知らないようだった。参加者全員が本人に聞こえていると思っていないような口ぶりだった。
 耳を閉じる。何も聞こえぬようにする。硬くぎゅっと目をつぶる。完全なる暗闇を求めて瞼の裏の景色を彷徨う。
 無数の線香花火のような光が散る。
 班目は夜の田園の道に立っている。


   八束Ⅲ


 S市のお祭りがやっていた。手を伸ばせば触れられそう巨大な満月が空に浮く。クオーターの穴ぼこの一つ一つまでくっきり見える。電灯が灯らずとも淡くて白い月光が田園を照らす。あの娘は緑や黒のスタッフTシャツ姿ではなく、生地のあちこちにハイビスカスが添えられた浴衣を羽織る。
「ありがとうございました。また来てくださいね」
 あの娘の姿をした発泡スチロールの等身大パネルが工事現場の人形のごとく手を振る。自分に愛想を寄せることに不信感を抱く。
 また来てくださいねって、あんた、警戒心っていうものはないのか。黒い服を着た一人客に精一杯の愛想を振りまくことが接客だっていうのか。俺が頭のおかしな人間だということを思わなかったのか。
 みんな気が付いていたぜ。ベルトコンベアに流れてきた不良品みたいに扱ってきたぜ。みんなこいつに優しくしたら良くない人間だってわかるんだな。つけあがって、もっと優しくされたいと思う、孤独で寂しい男だってわかるんだよ。それで仲良くして少しでもつき離れたら裏切られた、とかいって刺し殺しに来るような人間だってわかっちまうんだな。
 あんな接客して、つきまとわれるってどうして思わなかったの。こうやって俺はあんたの浴衣姿を想像してしまっているんだよ。あんただけだよ。こんなどんくさい顔をした、性犯罪者みたいな男に優しくするなんて。命知らずだね。
 今すぐその態度やめたほうがいいよ。ドラッグストアQすりのあの三人の女性店員みたいな態度をしたほうがいいよ。世の中のことがわかっていないってことが態度に出てる。見る人が見たらすぐわかる。
 一度しごかれたほうがいいよ。あんたのその愛想の良い顔が、日々の生活に耐え忍んで生きる貧しい顔になるまで。人に優しくすることを忘れた、自分で精いっぱいの人間の顔になるまで。間違った感覚だと気づくまで。
 痛い目を見ないとわからないか。あんな接客してると、いつかひどい目に遭うんだよ。優しいだけじゃ世の中渡っていけないってわからんか。
「俺がわからせてやろうか。あっはっはっは」
 パネルを蹴り上げる。二つに割れて地面に転がる。発泡スチロールの割れ目から、粒子が空中に吐き出される。
-なんでこんなことするの。来てよかったと思ってほしかっただけなのに。
 割れたパネルをしばらく見つめる。白いラジカセ、頭の中のラジカセがパネルの後ろにじっと佇んでいるのを発見する。
 「ありがとうございました。また来て下さいね」
 先ほどの声はあのラジカセから流れたのではないか。班目はラジカセに近づき、巻き戻しボタンを押す。きゅるきゅるとカセットが線を回収する。再生ボタンを押す。あの娘の声がする。「ありがとうございました。また来て下さいね」。
 あの娘の顔が足下に落ちている。ラジカセの再生ボタンを押しているのに、割れたパネルの中から声がする。夜風が吹く。パネルが地面を跳ねる。少し班目から遠ざかる。数センチの距離の移動が班目を孤独にさせる。
 あの娘の上半身と下半身のつなぎ目をじっと見つめる。自分の巻き起こした狂気を見つめる。
「おい、班目。仕事だぞ」
 班目の意識が急いで鉄工所に戻ってきた。
 眠ってしまった。
 班目が顔を上げて俺と目が合う。班目は呆気にとられた顔をする。今や俺の顔面は岩に潰されて真っ赤に腫れ上がって、夕日に照らされた昨日の鳳来岩そっくりだ。岩で潰された滴る血で緑色のジャケットを紫に変色させている。
「昨日はずいぶんやってくれたな。だが、仕返しをしに来たんじゃないぜ」
 班目の目は壁に掛けられた時計に向かう。まだ休憩時間内。十二時三十八分だと認識できたはずだ。班目の手が両耳から離れた。すでに食堂では他の話に変わっていた。
 ぺちゃり。それを見た班目が急いで膝を抱えて座りだした。下を見やると、鉄工所の床に俺の左頬肉が落ちていた。
「お前、まだ八束作ることができてないな。このあと、一時になったら、もしくはその後か。詳しい時間は俺にはわからないが、所長が何束できたのか聞きに来る。今のうちにやっておけ。うっとうしいことを言われる前に。休憩だからといって、仕事をするなとかいって止める人間はいないさ。今はピークなのだから」
 班目は俺の右目の空洞を見つめる。弱々しく首を横に振る。
「ここまできたら意地だな」
 俺が見守る中、班目が立ち上がる。点々と黒く濡れた段ボールを定位置に片付けて、持ち場へと歩く。机に四つのレールの束が山積みされている。「おい、給料が出てるってこと忘れたのか。これしかできてないなんて、どういうつもりだよ。くず」と心臓の鼓動が響く。
 俺は通路に出る。班目の丸い背中に目を送る。
「他のやつはもっと良いやり方があるなんてぐだついているけど、表に出てこられたのは俺だけでさ。お前には終わって欲しかった。何が正しいかなどという問題ではない。確固たる意志を貫いたからこそ俺は表に出てこられたんだよ」
 俺は欠けた頬を左手でそっと抑えながら、よろよろと奥の作動室の闇へと消えていった。
 レールにキャップをつけるときに、班目がボタンを押すと、穴のついた台が勢いよく発射される。キャップがレールを通り、台が引いていった。右端にキャップのついたレールを横に流して、再び部品をセットし、又一本とそれを繰り返した。
 テレビやパートたちの声のボリュームが、機械の作動音を大きく超えていて、安心して作業に集中できた。
 作業台にいる自分。夢の中の月光を受ける自分。それぞれの自分に意識が行ったり来たりする。
 手は作業をこなすために規則正しい動きをする。
 足はあの娘のパネルを粉々にする。
 ボタンを押して、発射台がピストンされて、レールにキャップが装着される。キャップのついたレールを机にどかして、一束できるまで数本並べる。
 発泡スチロールのパネルから噴き出した真っ白い粒子。あの娘のパネルの破片が鼻や口に入る。宙に舞うそれを乱暴な手つきで払いのける。再び膝を上げてパネルめがけて足を落下させる。踏みつけるたびに、粒子が巨大な月に舞い上がる。目や口や鼻に侵入しようとも、顔を振りながら、粉々にする。ラジカセの再生ボタンがいつの間にか押されて、石川秀美が「いかれてる、スイートボーイ、だけど誰よりも大切な人」と歌っている。
 班目はぼんやりとした暗い気力を取り戻した。きっとこれこそが自信であり、きっと正しい意識の持ちようなのだ。
 真人間の感覚に自分もようやくたどり着いたのだ。