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【小説】恋する薬【やんわりホラー】

「手を出すな!」
 ホールスタッフの男性従業員がバーテンダーに注意されている。周りの客に聞こえるぐらいの声で。男は今この結婚式場に、昔の、二十代後半の、日常に疲れた顔をした。それから俺は叱られた従業員が気になり出す。
 あの従業員が俺にそっくりに思えてならない。俺は昔、ブライダルの仕事に就いていた。蝶ネクタイに憧れて、接客する仕事に憧れて。「君は客の前に出るべきでない」と言われて一日でクビになり、機械に囲まれて製品を作る仕事に就く。
 あのときは精神安定剤の新型を試した時期と重なる。ハイになったのだ。俺はたまに自分の能力より上の規格外のことをする。そしてその世界から見向きもされず、弾かれる。特にブライダルの仕事を一日でクビになったことは、工場の指導員という幹部クラスの地位に達した今でも、あの失望感を引きずったままでいる。
 あれは残留思念、一日でバイトをクビになった俺の亡霊ではないかと、三流小説のような、馬鹿みたいな事を考える。トワイライトゾーンの世界に迷い込んだ哀れな善良市民のように。彼女との待ち合わせ場所への近道のために柵を跳び越えて置かれていたポリバケツの中に入ってゴミが支配する国に閉じ込められた、古いアドヴェンチャーゲームの主人公のように。

 

「竜ちゃん、私幸せよ」
 ウエディングドレスに包まれたエミ子は黄ばんだ歯を出しながら俺に微笑む。1月24日、俺は三十六歳という一般平均結婚年齢より少し遅い年に、繊維工場勤務だった六歳年下のエミ子と入籍した。マライア・キャリーが「チャンスは限られてたものじゃない…」と歌っている中、フォトムービーが流れ、「新郎と新婦の出会いはどさんこイチゴ狩りツアーで意気投合し、それから三年間、愛をはぐくみました」と骨太な司会の女が喋っている。
「そういえばあの件はどうなっている」
 俺は新車を買った税金の申し出を市役所に出していないことがずっと気にかかっている。
「やめてよ。そんな話、式中は」
「今済ませておきたいんだ。やるのは俺の役目だからな。お前ができるのであれば後にでも済ませるさ。車の運転ができるのか?」
 エリ子は事故を起こしてから、ハンドルを握りたがらなくなった。
「もう!意地悪しないで!」
 会場のホールには俺とエミ子の親しい間柄の人が集まる。親や兄弟、祖父母、近しい親族、高校の同級生、恩師、会社の同僚や先輩や上司、行きつけのダーツバーで知り合った飲み友達、大学時代のアルバイト先の愉快な同僚たち、アルバイト先の営業のお兄さん、アルバイト先の隣の工事会社の受付の女の子、駐車場を貸してくれている管理人、今いる家を建設した年が一緒の責任者、フットサルの面子らが集まる。エミ子側の人たちも同じぐらいたくさんの数の人を呼んでいる。
 会場には人が埋まり、広い場所を選んで良かったね、一般の人が借りるホールじゃなくて正解だったね、と、エミ子が言った。
「ねえ、さっきから浮かない顔してるわね」
「そんなことはないさ。結婚式を挙げられたんだからね。こんなに大勢の人が来てくれた。俺たちの結婚のためだけに。会社の人も殆ど参加してくれている。君の招待客だって。広いホールで一杯だ」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫さ。レクサプロはしっかり飲んできている」
「じゃあ、私、友達のところ行ってくるね。一年ぶりに会う子がいるのよ」
 エリ子が立つ。新婦の椅子が空席になる。
 あの日、新人として入った一日目、突っ立っているだけで自分が無能として扱われる立場でいるあの一日。時間の流れが極端に遅く、のど元にコルクを詰められたような居場所のなさを、何十年と立った今、ぶり返してきている。
 念のために持ってきていた、即効性の高いクロチアゼパムの錠剤が入った袋を、ジャケットのポケットから出す。袋を破き錠剤を手に取り、口に含んでワインで飲み干す。以前に働いたラグジュアリーな結婚式場のホールとは雰囲気が似ていない大聖堂を選んだ。不安定になる要素など皆無のはずだ。
 そんな中で奴がやってくる。「君は人前に出る人間じゃない」と言われた自分そっくりの従業員が近づいてくるだけで、心臓に圧力がかかる。コカインでもやっているような千鳥足で。
 男は俺に言葉を発する。
「失礼しもぉす」
 枯れ木のように陰鬱で湿気た声。乾いた唇の皮が、冷え切ったすき焼きの鍋の油の固まりのようで、皿を片付ける動作も危なっかしくて、俺は慌てて席を離れる。少し離れたテーブルの友人の所へ避難する。ビールを飲んでいる渡の肩を叩く。
「あの子、知的な感じが妙にそそられるよな。アタックしてこいよ」
 俺はエリ子側のテーブルを指さす。
「確かに。それでいて攻められるのが好きそうな、すけべな感じだぜ」
「俺は隣の子が好みだな。なんというか、すごい美人だ」
「新郎が結婚式でそんなこと言っていいのかよ」
「俺は単にあの子がどんなことが好きで、どんな店に通ってて、どんなおっぱいをしてるか知りたいだけさ。俺の妻はエリ子に変わりない。それにあの女、トレーが何ゴミかも知らなそうな顔をしてるぜ」
「お前って絶対に浮気するよな」
「それはない。それは。できないんだよ。エリ子の変わりがないんだよ」
「そんなこと言ってられるのも今のうちさ」
「ははは、そうかもな。女は若いに限る」
 適当に口を合わせて自分の席に戻る。その頃にはクロチアゼパムの効果が利き始めて、気持ちが良くなってくる。エリ子はまだ友人のテーブルに行ったきりで空席になっている。
 再びあの従業員だ。一日でクビになったアルバイトの残留思念は料理の皿を運ぶ。四枚持ち、三枚持ちならぬ、二枚持ち。俺はそいつに言ってやる。
「君はこの仕事に向いてないよ。初日だろ。わかるよ。こんな仕事は辞めて、俺の仕事、接客業に来たらどうだい。我々は素朴で素直な、君みたいな真面目な若者を求めている。給料も良いし、かわいい若い女性従業員もいる。リストラもない。仕事を覚えれば、あとはたるいライン作業を毎日こなす忍耐力がものをいう。工場が人員を一人募集しているんだ。社長が面接に苦労している。従業員が十人しかいない小さな工場だが、俺がみっちり教えてやるよ。いっとくが、酔っ払っちゃいないぜ。後で名刺を渡そう。俺の勤めている工場にはヘンな人間はおらんから安心していい」
「私は新人ではありません。ここで働いて十年になります。お皿の四枚持ちも残飯の皿から皿への移動から、ことごとくマスターしております。今、二枚持ちなのは、他の従業員が多く運べるように指導しているからです。私が全部の仕事をしてしまったのでは、彼等に技術が身につかないので」
 男の胸に視線を向ける。金のネームプレートが誇り高く輝いている。名前か名字が記入されているが、ローマ字の字体がおしゃれすぎて読めない。
「ごめんよ。話す相手を間違えていたようだ。なんというか、俺の勘違いだったようだ。いろいろあってね。あまりプレッシャーに強い方じゃないんだ。プレッシャーがかかっていると、簡単なことすらわからなくなる。やはり結婚式なんて挙げるべきじゃなかったんだ。ええと、君は、野球経験者か?腕が締まってる」
「野球はあまり得意ではありません」
「おかしいな。俺は野球とボウリングの経験者を当てることができるんだがな。はは。うまそうな料理が出てきたな。テーブルに置いてくれよ」
 この男の声を聞いてぴんんとくる。あの注意、「手を出すな!」と言ったのはバーテンではなく、この男が発した言葉なのだ。
 しゃべり方が違う。三河弁のなまりもない、きれいなしゃべり方。俺が若い頃、手にしたかった職、そして振る舞いをこの男は持っている。
 男が俺の前から離れると、ホールの出入り口付近で部下らしき仲間と笑っている。「町工場のおやじが酔っ払ってなにか変なことを言ってたぜ」と口が動いているように感じる。持ってきた皿の料理を食べるが味がしない。エリ子が帰ってくる。
「やあ。このちらし寿司おいしいぞ」
「ねえ、どうしたの。顔色悪いわ」
「そんなことない」
「いいから手を出して。具合が悪いなら私のパワーをあげるから」
 俺の左手がエリ子の指と掌に包まれる。
「うっひょーラブラブだねえ」
 友人たちが集まり、手を握る俺たちの写真を撮る。ピロンピロンとシャッターが切られる。俺が精神安定剤を服用していることなど知らない友人たちが席の前に群がってくる。
 こんな歯茎が黄色い女にラブなんて感情があるもんか。俺が愛しているのはレクサプロやクロチアゼパム、効果てきめんな精神安定の錠剤だけだ。
「竜ちゃん、私幸せよ」
 いつもならば、「何回言ってるんだこの腐ったアマ」とでも軽快な冗談を言ってやるところだが、精神が不安定な状態ではそれも口にできない。むしろそのやりとりに安堵する。俺はこの女、歯茎の黄色い、丸顔の地味なブス、俺の親や親戚もどう褒めて良いのか困るような、器量のないエリ子に愛されている。
「あなたは精神安定剤に頼らなくたって大丈夫よ」
 この世では自分の願望通りにはならないと思いながら生きてきた。俺がそういう生き方をするなら、やはりそういう風にしかならなかった。俺は転職に失敗してそのまま十人しかいない工場で七年勤め、不憫な女をもらい、本当に信頼できる友人のいない、クソみたいな人生を顔に塗られながら生きていくのだ。
 心の中で愛する錠剤の名前を繰り返す。レクサプロ、クロチアゼパム、グランダキシン、リーゼ、デパス、セディ-ル、コントロールソラナックス、コンスタン、ワイパックスレキソタン、セレナ-ル、バランス、エリスパンメレックスセパゾンホリゾン…。青ざめた顔をしていると、シャッター音、形だけの友人たち、それらの騒ぎにも邪魔されず、エリ子の声がはっきりと聞こえる。
「竜ちゃんは精神安定剤に頼らなくたって大丈夫。竜ちゃんは大丈夫。自信を持って。どう、すっきりした?定期的に言わないと、あなた不安になるでしょう。こんな大きな結婚式、本来は望んだものではないものね。それは精神安定剤を服用しても同じ事。だから能なしの腐ったアマのように、私は同じセリフを繰り返しているのよ。幸せよ、大丈夫よ、って」
 俺はエリ子の手を強く握ってみる。目の前のものがはっきりと見え、呼吸をするのが楽になる。
「能なしの腐ったアマみたいなあんたに言い聞かせるために」
 俺は効果てきめんな精神安定の錠剤だけを愛している。
 俺はこの女を愛している。