【小説】話したことがないクラスメイト【ホラー】

「栄太くん。俺、ザリガニがいっぱいいるとこ、知ってるよ」
 雑巾を投げる手を止めて振り向くと、同じ班の奏(かなで)が箒を持って立っていた。
「俺がザリガニ釣りが得意ってなんでわかるの」
「だってよく教室で話していたから」
 栄太は嬉しくなった。話したことがないクラスメイトが、自分のことを知っているのだ。最も、栄太にはそれが不思議に思わなかった。クラスの中でも自分は「楽しい奴」だという自負があったし、担任教師の後藤博一に悪い意味でマークされているのにも気が付いていた。奏のような勉強に明け暮れるクラスメイトが、「楽しい奴」である自分に惹かれるというのも、ありうる話だった。彼ははめをはずしたいのだ。
 かわいい奴め。栄太はそう思った。
 授業後。通学路とは違う南門から奏と出た。漫画やゲーム、四日前に行われた「合唱コンクール」のことなどを話題にした。喋ると奏は活発だった。少しの間で「楽しい奴」だということがわかった。
 民家の駐車場にミラーが設置されていた。そこに二人の姿が映った。薄い水色のTシャツ姿、坊主頭の栄太に、チェックのシャツに半ズボンで、髪をきっちり分けた奏。少し奏より背が優っていて、並ぶとより奏の器量の良さが際立った。
 体力派と頭脳派の二人組。
 奏が穴場だと指したのは、町の南方だった。自分の町にこんな異質な場所があるとは知らなかった。ここは山村だ。にわとりや牛の鳴き声がする。味噌汁の匂い。長屋の玄関からは、テレビの情報番組の音が筒抜けになっている。開きになった緑や赤のペットボトルが屋根から紐で吊るされていて、日に当てられて輝いている。
「俺の家はこの近くなんだ。このあたりに来たことは?」
「一年前親父に連れられて、スタンプラリーで歩いたな。といっても、あのクリーニング店までだが。ライトグリーンのジャンパーを着た係りの人にイチョウのイラストのスタンプを押してもらった。ここって不便だろ?」
「まあね。だけどうちには畑がある。きゅうり、トマト、へちま、その他いろいろ。悪くないよ」
「手伝いとかするのかい?偉いな。なあ、喉が渇いたよ。奏くんの家で休んでいってもいいだろ?」
「いいとも。ザリガニ釣りが終わったらそうしよう。ゲームもやっていきなよ。ご飯も食べていっていい。帰りたくなったら、ばあちゃんに車で送らせるよ。スズキの新車を買ったばかりなんだ。人を乗せたくてうずうずしてる」
 奏はすらすらと口にした。
「君と友達になれたら、さぞかし楽しいだろうな」
「もう友達じゃないか」
 この町に生まれ、住み慣れたはずの栄太だったが、見慣れぬ景色に萎縮した。それを奏に知られないように努めた。立場は常に対等、またはそれ以上でなければならなかった。面子を潰されるのはごめんだった。栄太にとって、クラスメイトとの関係性においては、面子はいつでも対等以上なければならなかった。
 行く先には杉の木が両脇にそびえ立ち、道は闇に覆われている。奏はその中に躊躇なく入っていく。栄太は、木々の中の白い看板を見やった。真っ赤なインキで

不法投棄者、罰金五十万円也

 と書かれている。
 二人の背にある夕日が長細い影を作る。太陽が出ているにもかかわらず、電灯が橙色に灯っており、近くを歩くと、じじじじというモーター音がする。溝には破れた羽毛布団が捨てられていて、小さな虫が黒い点となってたまり場となっていた。
 栄太は家に帰りたくなった。自分がどうしてこの土地に足を踏み入れているのか、意味が掴めなくなってきたのだった。
「栄太くん。ここまで来たことは?」
「ない。だけど、どんな穴場なのかわくわくするよ」
「目の前にあるだろ」
 奏が立ち止まった先にあるものを見た。ザリガニがいっぱいいる場所。ここが?

 

 それは小川や水辺ではない。用水路だ。何者の侵入も拒むようにシルバーの柵で覆われている。このところ雨が降っていないにもかかわらず水が勢いよく流れている。決して栄太に好意的でない二つの看板が立てられ、一つは「立入禁止、関係者以外はいらないで下さい。豊川用水総合事務局」。もう一つは「あぶない!落ちると危険です!!施設周辺に近づかないで下さい!!!」という言葉の下に、男の子が水に溺れ、助けを求めるように両手を挙げて白目を向いている。
「表面は水の流れがあるけど、底にいくにつれて弱くなっているみたいなんだ。水流が壁になって外敵に晒されることもない。住みかを荒らされる心配がないんだ。ザリガニ釣りって、糸の先に餌を刺して、水の中に垂らして獲物を待つんだろ?」
「ザリガニ釣りがどういうものなのか知っておいて、ここに誘ったのか。流れが強かったら、糸がどうなるかわかるだろ」
「でも、ザリガニがいることは事実だよ。僕の父さんがこれを発見したんだ。この網を登って、斜面にしゃがんで見つけたのさ。父さんもザリガニ釣りはやってたらしくて、水の中を覗き込むくせがあるんだ。それに、流れが速くても、奥にいるザリガニを捕まえる方法はあるはずだろ。考えるんだ」
「あぁ」
栄太はやる気のない声を出した。奏にどう聞こえようが知ったことか。お前のサプライズは失敗に終わったのだから。
「せめてザリガニがいるかどうかぐらい確かめなよ。ここまで来たんだから」
「わかったよ。ただ、ちょっと意外だったんだ。こういう場所だとは思わなかった。ザリガニ釣りは川だと相場が決まってるから」
「相場って、栄太くん、大人みたいなことを言うね」
「よせやい」
 まず、靴の土を落とすことにした。つま先。かかと。十分に塗装されていない道路の脇のでっぱりでそぎ落とす。奏が心配そうな顔をする。眉間にしわを寄せて、祈るように両手を胸の前に合わせる。目をぱちくりさせる。
 俺はひし形状の金網の一つに指を掛け、つま先を乗せた。それから登る。運が良いことに、一箇所、子供が入れるスペースだけ有刺鉄線が切断されている。
「落ちたらだめだからね!落ちたらだめだからね!」
 奏が叫んだ。
 柵をまたいで用水路側へ。口の字型の斜面に足を乗せる。体重をかける。網目にしっかりと指をかける。奏と金網越しに向き合った。
「底をかき回す棒を探してくる」
 奏は栄太が返事を返す前に、後ろの草むらへと駆けていた。
 水面に顔を向けて、目を凝らした。見えるのは、黒く濁った流水の湾曲だけだった。流れる先はコンクリートの空洞になっており、そこからはさらに黒い闇に包まれていた。ごぼごぼという音が反響して、こちらに伝わってくる。栄太は暗い水の中を見つめながら、どのようにして奏の父親はザリガニがいると知ったのだろうかと、疑問でいっぱいになった。
 棒があれば。顔を正面に戻すと、奏がこちらにやってくる。手にはそれがある。白いペンキが塗られているが、あちこち剥げている。所々黒い筋状の木目が見えた。栄太には一瞬その一つ一つが人の顔に見えて、はっとした。
 太さはといえば、ちょうど金網の輪の中に入るぐらいだった。
「本当にここにザリガニがいるのか」
「ザリガニぃ?」
 奏の様子に、栄太の指が深く金網に食い込んだ瞬間、棒の頭がにゅっと輪の中から現れ、栄太の心臓目がけて飛び込んできた。避けることもできず、向かってきた棒の激突をもろに受けた。必死にその場にしがみつき、棒に押されて栄太がくの字に曲がった。棒に全体重をかけたとき、棒は栄太の脇腹を滑り、奏の顔が金網にぶつかって、ぐげぇ、とうめき声を漏らした。栄太は急いで棒が刺さった輪っか周辺から離れた。棒は奏の手から離れ、そのまま斜めに金網を滑り、流れの中へと消えていった。
 栄太は胸に受けたうずきを抱えながら、横へと逃げる。しかしすぐに奏の手に捕まった。金網に引っかけている栄太の指を剥がそうとする。
「奏くん」
合唱コンクールの時にふざけていたよな。松浦さんが注意しても全然ちゃんとしなかった。手を焼かせる邪魔者。はしゃぐことでしか自分を保てない落ちこぼれ」
 がちゃんがちゃんがちゃんがちゃんがちゃんがちゃんがちゃんがちゃん。
 奏は金網を蹴った。それを繰り返した。がらんがらんと波打った。奏の爪が皮膚に食い込んだ。この日のために伸ばしていたようだ。三日月状の溝となり血が出た。指の肉が裂けてもお構いなし、といった具合だった。
「奏くん」
 大きな声も出せない。栄太はおびえきっていた。
「お前のことを好いているなんて思ったのか。俺がお前のことを好いているなんて、少しでも思っていたというのか。俺はお前のことをこうしたいってずっと思っていたぞ。ざまあみろ、調子っぱずれ」
 最後には奏は大きな声で叫んでいた。一本離れた散歩道にも聞こえるほどの声だった。金網を蹴り続ける奏の表情を見ると、どちらが追い詰められているのかわからなくなるようなものだった。おでこには脂汗がぼこぼこと沸き、目は見開き、充血していた。知的な我が友達の顔には、まだ網目模様がくっきりと残っていた。栄太を追い詰めようとする奏は、同じように何かに追い詰められていた。奏の中に存在する絶対なる指導者。このくだらない計画を立てたのはそいつで、この最後の仕上げにかかったときには、奏は一人取り残されたのだろう。ちぎれそうな痛みを受けながら、栄太は機をうかがっていたが、実際は奏の変わりように唖然としていた。
 奏の爪が離れ、金網が一揺れすると、ぱっと頭の中で火花が立ち、栄太の身体が宙に浮いていた。夜になろうとしている空が視界に入ったのを最後に、斜面に後頭部を衝突させ、小石のように用水路へと沈んでいった。
 冷たく暗い水の中で身体が回転する。まだ意識はあったし、痛みも消えていなかった。栄太はまだ生きていた。肺にまで水が達し、呼吸のできない苦しさに悶える中で、目がひっくり返り、白目を剥いた。
 痛い。痛い。早く死んで。
 栄太の身体が、コンビニエンスストアのビニール袋や、腐った葉っぱの固まり、片方だけのビーチサンダルに混じって、水門の柵に引っかかった。
 栄太の脳裏に奏のことが浮かんだ。そうだ、将来の夢は歌手だと言っていた。遊びに興じることなく、民家が密集した場所から離れて、歌の指導を受けているのだ。大人たちが出場しているコンクールに出ているとも聞いた。合唱コンクールで最下位を取ったとき、奏はどんな表情をしていたのだろう。どんな感情が渦巻いたのだろう。
 思い出そうとすることなく、栄太は三つの文字を口にした。
 し、ら、ん。
 冷たい水の中で栄太は笑みを浮かべた。それから全ての痛みが引いていった。